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野中日文書画カレンダー


318412_268701863246414_922101394_n.jpg 夜桜 イメージ 飛翔 落花如雪




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号外 今期からの義務教育の「必修武道」関係者諸士へ 其の二 

<前号につづく>
執筆者の思想的な立場と視点
インタネットの「野中日文」の検索で執筆者に関するデータはすべて入手できるが、筆者の思想的な立場は、まず小学生のころから愛読してきた東洋の実践論である『論語』、『孟子』などの朱子学の古典 それから成人後の『孫子』、『蔚繚子』などの戦略書 禅を経て本居宣長、賀茂真淵の復古神道への回帰である 興味本位に渉猟したのだが、結果的には先輩方が学ばれた神、儒、佛という三学のあとをたどったことになる
武道については中学生当時からの柔道、のちの剣道(高野佐三郎門)への転向、その後の無刀流、直心影流などの古武術の渉猟を経て合気道開祖植芝盛平に出会い、その直伝の武術と心術を学ぶ幸運に恵まれ、闘争の技術がそのまま万物万類を愛護する道へつながる日本武道の構造を知った 筆者の「武道行動学」には上述の三教と開祖直伝の合気道神学(言霊学)が下敷きになっている


●以下は概論
日本の行動文化の特質 
進歩するほどに、民に「不安」を授けたまうのが現代の神「自然科学」である そのことはお互い、今般の原発事故で思い知らされたはずだ
原子エネルギーとは、人には制御不可能な八岐大蛇 水平思考の現代人には使いこなせない 思い上がって無辜の民に国を売らせた 天罰である    

○垂直思考――筆者独自の視点からの、自然科学の水平思考に対する垂直軸の思考法、人は天と地とをつなぐ者として、天地の間に垂直に立つ その視野に入るのは永遠無窮の人の命 これに対するのが「畏れ」や「慎み」を忘れ、自然を征服の相手と思い上がってしまった自然科学の水平思考 行き詰まりは目に見えている 物質科学の水平思考は今回、「天罰」の対象として頭上に鉄槌を受
けた 以下は垂直思考の利点弱点と対策

○ 十字思考 人は大地という水平軸に垂直に立っているから自分の現在位置が見える これが「立場理解」という行動(礼)の起点だが、立場がわかるためには垂直軸の中の水平軸(仲間意識)が不可欠 

○「やまとだましい」についての誤解――本居宣長の「やまとごころ」とは、ものに感じやすい繊細で鋭敏な十六乙女の心をいう 戦争目的で運用を誤ったが、「八紘一宇」とは本来、地上の生き物を仲間たちとみる視点である 

○日本語(やまとことば)は垂直軸の感性用語 詩歌表現に向く 論理構成には向かない だが、今期の文明(水平思考)の行き詰まりには有益な提言が可能 垂直軸をもつ言葉だから
  
○戦闘の場面では、論理的にではなく感覚的に対処する メカニックな集団戦にでなく、剣技など個人の感性と能力に才能を発揮する

○ものづくりでは、新開発や発明よりも手先の感覚で勝負 コスト意識に乏しく、「誇り」と「恥」で動くのが世界に類例のない日本の職人たち 捨てるべきではない国の宝

○学習成果としての能力よりも天分、天賦の能力(良知良能)で対処 直心影流の剣でいう「直心」の存在に光を当てることで人知を超えた世界が見えてくるが、教育法を考えないと普遍性をもちにくい

 
「道」と「術」 

○「道」とは観念 「術」とは行動
 本稿では武術を、危険を知り危険を回避するための危険学、一種の行動科学として追究する この視点からは「礼」もまた「危険に対する感度」を核とする行動科学である 人の心の動き(危険)が読めなくては礼も剣もどう動けばよいかが見えない 危険を知るのは感性の領分 危険に対処する動き方を「術」と呼ぶ 手法、テクニックのことだが、原子エネルギーの危険性に気付かなかったのは致命的 自分の「都合」や「事情」のために相手が見えないのだ 征服するつもりが征服されてしまった これは剣にもどって考えれば、ごく初歩的なミス

○道徳教育と学校武道の相互関係について
道徳教育が「やさしさ、いたわり、おもいやり」にとどまるうちは行動には結びつかない 武道の鍛練法は本音と本音の真剣勝負である この勝負に勝ち抜くためには決して無視のできない勝負の鉄則があるが、これが「道」 ものの道理のことである 
この視点からは分野を問わず技術者とはすべて「求道者」である 道を踏み外したら天罰あるのみ オテントサマが見てこざる 今次文明の自滅の構造 おそらく今回の「必修武道」が、残された最後のチャンスだろう

○実践論としての勝負哲学 
ものごとを「成功と失敗」の図式、「勝ち負け」の図式に置き換えることにはどんな利点があるか 
まず単純化することで頭が片付き、行動化が容易 比較検討によって結論が出やすい 筆者の場合、『孫子』が有益だった ぐずぐず言っていても始まらぬ、この場をどう切り抜けるのか? 頭デッカチの筆者の場合、これが収穫だった 日本武道を「金メダル」に終わらせてはならない

○戦略論(兵法)と戦術 観念論と各論
視野のとりかたの問題だが、行動論としての本稿は問題の所在を明らかにするために、多少の乱暴を承知で我々の行動のすべてを一つの勝負の場面に置き換えてみた すると剣術を拡大すれば戦略論となり、場を置き換えれば政治手法となり、政策を対人関係の場へ移せば「礼儀作法」になる すべて危険に対する感度が羅針盤の行動論である
わが国の学校教育では「行動」を教えない 道徳の時間はあるが、その内容は「基本的人権」のほかには「やさしさ、いたわり、思いやり」しかない それで「武道必修」というわけだろうが、腕力レベルの武道しか視野には入っていない 人とは「考える葦」 「知」の戦力化を講じてこそ現代の武道教育

現代は「頭脳戦」の時代
刀槍の時代は明治維新で終わった 現代は頭脳戦の時代だ 頭を切り替えよ
どう切り替えるか
義務教育課程での「武道」では、「無事故」は必須の条件になる
無事故とは文字通りの「事故ゼロ」でなければならない そのためには指導者は教師としてではなく、「必修武道」にわが子を託する親の立場で子供たちの前に立て もし子供たちに傷を負わせたら「自裁自決」の覚悟で子供たちの手をとれ 現代とは刀槍の時代ではない 少年たちの実人生に有益な、「知」の戦いの鉄則を教えよ 関係者諸士にその覚悟と用意はあるか
生涯を武道とともに過ごしてきた筆者は、そのための助言として本稿に松浦静山の「礼剣同源」論を援用した 筆者独自の視点からの「武道行動学」の提示である ご活用願いたい 告訴騒ぎをひきおこして、法廷に「被告」として立たされないためにも ▲▲

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行動文化 (79) 「舞いの武道」 

 

鷹の舞

 






ヤマトナデシコ達へ「舞の武道」を贈る

男の条件とは「力」 異存はない が、武道を行動学に置き換えただけでは、わが谷神会もいささかさびしい 酒……まちがえた、「花」なくして何の人生ぞ  



古人いわく、「人はおのれに見合った舞を舞いながら生涯を終える」 なろうことならお互い、生き辛い世を美しく舞いたいではないか 



剣の舞には古来、詩吟にのって舞う勇壮な「剣舞」がある 見ているだけで元気の出る舞いだが、しかし腕力気力だけのことなら強い男はいくらでもいる  



花のない男はつまらない 面白からず候 末法の世 いずこも同じ秋の暮れの宵闇の中に凛として咲き残るキキョウの花――その通り 強さが条件とはいえ、男も汚れてはなりません 汚れても、男でなければなりません



しかし、そもそも「気結びの舞い」などというガラにもない事を企てた動機は、ヤマトナデシコたちをわが谷神会に招きたいからです ナデシコ方には、わが谷神会の「舞いの武道」部門の主役をつとめて頂きたい 



わが国は神代の昔から女性が主役なのです 異国のフラダンスの後塵を拝しているだけでは、ヤマトナデシコの沽券にかかわるのではありませんか 



谷神会では、男どもは稽古場でも舞台でもヤマトナデシコ方の引き立て役、つまりとり抑えられ、投げ捨てられ、斬られるという汚れ役をつとめます 動きが能舞台の「つれ舞い」に似ているという評がありますが、わが意を得たり 強さよりも谷神会は「幽玄」と「優雅」を大切にしたい



しかし、この「気結びの舞い」は目を楽しませるための舞いではありません あくまでも武道の稽古鍛練法の一つ 気結びと体さばきの基礎鍛練が、外見的には優美な舞いに見えるということです 「当て身」も「投げ」も表へは出しませんが、「ここで当身が入る」とか、「これに弾みをつければ投げ技になる」と、見る者が見ればわかる 



外見が優雅な「舞い」なので野中は武術は捨てたのかという声がありますが、そうではありません 「舞い」としか見えない動きの本質は白刃の動きのような勝負術です 私はここにわがヤマトナデシコたちの本質を見ます それでいて、「舞い」としても美しく、また舞うことが楽しいのは望外の仕合わせ ひとときを非日常の世界で羽を伸ばせます 



全国のヤマトナデシコたちに呼びかけて指導者育成にとりかかりますが、ただし受講には条件があります 「天才」と「美女」はおことわり ――その通り あなたは失格 指導者の資質とは「親切心」と「根気強さ」、この二つです どうやら時代は女性の時代に入ったようです 「舞い」としての型を覚えたら、各地に散って自分の道場を作って下さい 支援します ▲▲



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行動文化(78)  竹中 労という男 

 

人生とは「文体」

革命論と芸能評論の世界に、竹中 労という男がいる



こんな文章を書く



――音楽は、うたは階級意識よりもすぐれて革命(反革命)であり、窮民を真に革命のエントウシアスモス(憑霊)へと、脱自の叛乱へと導くことを、あるいはその“暴民”へのエネルギーを、諦観と感傷に拡散していってしまうことを、一九五二年夏ま昼、ひばりとの出会いでおいら感得した――(『竹中労行動論集 無頼と荊冠』から。73年、三笠書房)



07715日付の朝日紙文化面に、「竹中 労は終わらない」のテーマで上記の文章とともに竹中の仕事ぶりに関する記事(西岡一正)が出ている 



昨今は、このての文章(竹中の)にはまったく出会わない 



生硬といえばこれ以上の生硬はなく、文字表現へのこだわりがもたらす脱俗といえばこれ以上の脱俗はない、魂だけがギラついている、刃物のような文体 である 読者を選ぶことおびただしい つまり、まあ売れない



竹中については小生、予備知識はあったがそれは昔の話 芸能界には何の関心もなかったからヒバリへの意見についても、この記事に接するまでは竹中の問題意識とはすれ違っていた 



各界の著名人を俎上に乗せた『エライ人を斬る』に示される叛骨ぶりについては当時、ただ「キャンキャン吠える小うるさい奴がいる」といった程度の印象で、「ケンカ屋」の悪評もついてまわっていたというが、いまあらためて思う 



問題意識はこの竹中、小生とほとんど変わらない



 



小生を「右」と思っている者が多い ピンボケである 小生は孟子の徒 孟子はアナーキスト 今もなお革命者たちに担がれる   



『エライ人を斬る』にみられる反権力、しがない無名の存在への共感、そこに竹中は物書きとしての自身を重ねたのだと朝日の西岡記者は書く ペンをとる身として共感を覚える筆遣いである 記憶にとどめたく、メモを兼ねてここへ書き誌す 



この竹中、警察署襲撃で逮捕され二カ月の黙秘 釈放の日のパチンコ屋の前 /そこへ、うたが聞こえてきたのだ。うたは心に落ちてきた、私は急に切なくなった、涙がこぼれてとまらなくなった。♪リンゴの花びらが風に、散ったよな……/これに竹中まいった 泣いてしまった とめはせぬ 泣くんなら泣いちまえ ガキのころのように おれもつきあってやる ケンカ屋の感傷 (『完本美空ひばり』) 



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行動文化(77) 

 

人生に「習作」はない

柄本明という役者がいる 彼の「東京乾電池」という一風変わった劇団名を乾電池の会社と思いこんでいた人がいるが、演技を感じさせないこの柄本にほれ込んで自分もこの劇団に入りたい、役者になるにはどんな訓練が必要なのかと問い合わせて、気の毒に「キミはうちには縁がない あきらめろ」とにべもなくつっ放された青年が宮崎にいる 



そういう事なのだ 団体名に「乾電池」を使ったのはおそらく自前のエンジンを意識してのことだろうが柄本は飼い犬ではない 柄本は芸(演技)はしない 芸をさせられるくらいなら死んだ方がマシと思っている  



ボブ・ディランという歌い手がいる 彼に触発されて自分の世界をつくったのがヨシダタクロ―だという ほう、と思って聴いてみた 



ボブの発声には特有の気合いがあってほとんど作意を感じない とくに「風に吹かれて」は馬上のカウボーイの鼻歌の感じだが、タクロ―の声は芸能人のものだ ボブに触発されたのだそうだがお客様相手の演技 



評論にも「練習」や「習作」などあり得ない 評論はいつも真剣勝負 相手は雇い主でも顧客でも応援団でもない どっちかといえば敵 通じなかったらそれまで 「訓練」を否定し「演技」を拒否する柄本は面白い 



 



人とは「香気」



ちょっと古いが、久しぶりに、D・ミネの「旅姿三人男」を聴いた 



三人男とは、清水港の次郎長の子分「大政・小政・森の石松」の三人のことだが、あらためて聴き直してみると、歌の文句とはいいながら絶妙のキャラクター描写だ 



♪ 清水みなとの名物は お茶の香りと男伊達 見たか 聞いたか あの啖呵 いきな小政の、いきな小政の旅姿 



♪ 富士の高嶺の白雪が とけて流れた雪水で 男みがいた勇み肌 なんで大政、なんで大政、国を売る



♪ 腕と度胸じゃ負けないが 人情からめばついホロリ 見えぬ片目に出る涙 森の石松、森の石松、いい男 ――と、こんな調子だ



この三人男、実像はどんなふうだったか知らない 知りたいとも思わない 



そもそも親分の「次郎長」ご本人、写真が残っているがいい男ではない だがそんな事はどうだっていい 三人男、この歌さえ残ってれば、なまじの実物になど用はない 逢えばたぶんイメージはこわれる つまり歌が作った香気 こっちは本物にではなく、残り香、すなわちイメージに用があるのだ



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