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行動文化 (71)  活人剣「無事故武道」(7) 

「検証」と「競技」のちがい
 「検証」とは、正しいか間違っているかの実験である どっちが強いかということではない このさい「正しい」ということは「強い」ということでもあるから結果としては「どっちが強いか」ということにもなるが、しかし「どっちが強いか」は無責任な、野次馬的な関心である 武道とは関係ない
落語に、熊さんが横町の隠居の「ならぬ堪忍するが堪忍」という説教を聴きちがえて、「奈良の神主と駿河の神主がケンカしたらどっちが強えか、おめえ知ってるか?」 と請け売る場面が出てくる これに対して、「そんなこたどーだっていいじゃねえか」ならオトナの反応 「ってやんでえ、それがいちばんでえじなこっちゃねえか」が熊さんの仲間の八っつあん まあ、数からいえばこっちの方が圧倒的多数派 愛嬌はあるが、しかしそれだけのことだ つまり、「武道」と「競技スポーツ」との違いとはこれである
数が多けりゃいいというものではない 数が多いのがいいのならバイキン(ウイルス)の数がいちばん多い 野次馬の興味にピントを合わせるのはスポーツ業者 武道人の背骨とはプライド 野次馬の興味には奉仕しない 覚えておくことだ スポーツ業界の価値観に合わせたら日本武道の根幹が崩れる 数は少ないが、この事を本気で憂慮しているサムライは平成の日本にもいる

 勝負判定は必要か? ――「無検証試合」について
かつて「紳士のスポーツ」であったゴルフには、監視人はいなかった 
ゴルフが監視人を置かなかったのは、他人に監視されるまでもないという紳士のプライドである 
聞くところによれば、今回の「武道必修」は伝統文化に触れさせるのが目的、その伝統に「武士道」を持ち出す者さえいるが、あらためて問う 誇り高く、恥辱に敏感な日本武道の世界に、なぜ「審判制度」があるのか? いつから日本武道は他人に審判される事を恥と思わなくなったのか?
周知のように相撲には「行司」という勝負の仕切り役がつく むろん行司は検査役の代行 行司の判断に疑念があれば「待った」がかかる 
ゴルフにも昔日の面影はない ゴルフはいまスポーツでさえない賞金かせぎの場 誇り高き武道の試合にも「審判」がつく いずこも同じ秋の暮 「伝統文化」をいうのなら「審判」は日本語ではない 
柔道の「教育的指導」 これもおかしい 日本語ではない 指導することを「教育」というのだ 教育的でない指導があるのか おかしいのは「指導」だけではない この指導とは「監視」の産物なのだ 監視されるのは囚人 ▲▲
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