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行動文化(176) 「死」とは、解放 

視点の問題である。かけがえのない人の死はむろん悲しい。だが、人とは肉体ではなく不滅の霊魂なのだと知っている者にとっては、その悲しみの質はかなりちがったものになる。事実、仏教も神道も死を終末とはみていないが、これも垂直思考の産物。もっとも専門家でない善男善女には死後の消息は不明。かりに説いて聞かせても精緻な哲理の理解は無理。ではどうするか。信ずる者は救われる。「信」しかない。
肉体とは霊の神殿である。地上とは仮の世。量子力学の研究者たちによれば、時間空間をふくめてこのガチガチの物質の世界とは「観測者効果」(イマジネーション)によって描き出されているバーチャルリアリティであって、いわば一種の消滅の実験室。これをうたうのが「空」の哲学である般若心経。この肉体を自分と思っている人はまだ多いが、人とは肉体ではない。つまり物理法則には支配されない。物理法則に支配されるのは人ではなく、人の保護室であり道具である肉体。小生、いまこそ確信をもっていえる。人とは霊。つまり人とは肉体ではないから死なない。「死」とは、人が耐用年数のつきた肉体を脱ぎ捨てるだけのこと。これは信じるとか信じないといったレベルの問題ではない。霊魂とは形而上の存在である。物理法則には支配されない。
人は死なない 人は「死」で終わるわけではない。あの世というものがあるかどうかは、これは考え方などというものではない。死は厳然として、ある。そして「天国」も、また「地獄」も、ある。事実、筆者はそこへ行ってきた。いや天国へではなく地獄へ――
夢を見た。追尾する大勢の敵の囲みをのがれて、高い崖の下の河原にいた。丸い枕ほどの石がゴロゴロと散乱している河原。そこを筆者は裸足で歩いている。当然足が痛い。みると足の裏が切れている。丸かった石がいつのまにか鋭く尖って、先端に赤い血。見ているまに血――つまり筆者は地獄の剣山にきていた。
血の流れる足をひきずりながら河原を移動した。――と、眼の前に枕ほどの石がゴロゴロと転がりながら流れている支流らしいものがある。よくみると、ゴロゴロと流れているのは石ではなく、人の頭蓋骨。これが右手の下流の洞窟の中へと流れ落ちてゆく。洞窟の中は暗くてみえない。轟々とこだまする音響のみ。さすがにここで、「ここは地獄だ」と思った。地獄とわかれば方法はある。「破獄」という言葉がひらめいた。が、しかし周囲は滴り落ちる水にぬれて光っている冷たい絶壁。これではとても――。エ―イ! と九字をきった。と、どうだろう。一瞬に氷壁は消えて、筆者は路傍に満開の梅花が匂い、ウグイスが鳴いているのびやかな山里にいた。
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テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

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