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行動文化(175) 石臼 

禅の六祖に慧能がいる。
慧能はどこへ行くのにも石臼を背負っていて片時も降ろさなかったという。左様、六祖の場合、石臼とは十字架。ではなぜ十字架を? 
この人には老いた母親がいて、慧能が拾ってくる薪を売って露命をつないでいた。そこへ禅の達人の噂。
若い、ものを知らないということは悲しい。自分を杖とも柱ともたのんでいる老いた母親をすてて禅へ。あとはいうまでもなかろう。

もうひとつ。支那事変のとき、本隊にはぐれて山野をさまよい、とある谷間に一軒家をみつけた。いってみると老婆がひとり炉ばたにいて、なにか煮ている。柴戸を蹴破ってとびこみ、軍刀を抜いてつきつけた。老婆はキョトン。張りあいがないから老婆を放し、鍋の中のものをむさぼり食った。老婆はじっとこれを見ていたが、兵が食い終わって出て行こうとすると袖をつかんでひきとめる。?
ひきとめておいてこの婆さん、ダンゴのようなものをぼろ布に包んで兵の腰へ結びつける。茫然としていると、こんどは竹筒に草の煮汁のようなものを入れて、これももっていけと持たせた。日本兵ついに泣きだした。その背を婆ちゃん、枯れ枝のような細い手で何度も何度もなでてくれたという。
戦後、忘れかねて新聞のかたすみに出ていた体験談。この老婆にとってこの日本兵は敵ではなく、腹をすかせておびえている息子だった。

日本神道に「教義」はない。
司馬遼太郎氏だったか、日本神道に教義がないことを冷笑気味に書き、また禅学の秋月龍珉も「日本神道を甘やかすな」などとえらそうに書いている(『大乗禅』)。これが日本の疑似インテリの病理。
日本神道にはこざかしい「教義」などない。
むろん国家神道の場合はべつだが、賀茂真淵、本居宣長の復古神道とは「こころなおきときはむつかしきおしへは用なきことなり」なのであって、高い位置からは低い谷間はよくみえるが、底辺からは頂上は雲霧に遮られてみえない。
復古神道が説くのはただひとつ、「正直」。すなわち「歌」。支那流の「忠孝」も「仁義」もない。
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テーマ: 文明・文化&思想

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