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行動文化(174) 人生とは過程 

人生に目的があるかどうかも、人の命の問題も、人によって違う。だがこれは一般論であって、個人として考えれば「人によって違う」などとのんきな事はいっていられない。
我々はおたがい、屁ひとつ貸し借りのできないのっぴきならぬ日常を生きている。人生の内容とは小面倒で鬱陶しい貸し借りや、それに伴う愛憎である。小生自身にしたところで、いつどこで誰に何を云われているか知れたものではない。弁解はしないが、しかし「弁解」はしょせん人間相手。つまり水平思考。垂直の視座からは人生とは過程なのであって、泣いたり笑ったりの一瞬一瞬で完結しているのである。
え? 無定見? その通り。無定見では悪いか。
自分の問題なのだ。一般論ではない。人が立っていられるのは一本足ではなく、二本足で、動けるからである。光源氏は稀代の浮気者。右にふらつき、左によろめき、その日その日の出来心。やまとごころとはすなわちこれ。日本男児のお手本として後世に名を遺した。

「悲」
 人は自分のことを思っているときは地獄にいるのだといったのは禅の沢木興道。禅を学んでニヒリズムの地獄を脱出できないのはニセ悟りと断じてよろしい。
禅とは無我の自証である。
沢木の「宿なし興道」の看板を「宿なし」だけ余計だと批判した者が禅界にいる。無論そういえなくはないが、批判のための批判の観を免れない。
沢木老師の「宿なし」は、剣でいえば「位どり」の心得。位どりだというのは、「悲」とは与奪の「与」の位。殺人刀活人剣の二つの位でいえば「悲」とは無条件の愛。
そもそも我々は何のためにこの世へ生まれおちるのか。
むろん色々な意見があるが、筆者はそれは「悲しみ」を体験して自由を手に入れるためだと思っている。自由がほんとに手にいるかどうかは体験しかない。もし悟ったと思っても「虚無感」が残っていたらそれはまちがいなくニセ悟り。最後に残るのが肉体。肉体とは天が与えたもうた「不如意」を体験させるための足枷。
※『武士道と武道(英文)』 『予知』――いま甦る古代支那の開運の科学
 『垂直思考』――思想家野中の筆業の総決算  『美術カレンダー(部数限定)』――剣者野中日文の筆のすさび  ヘッドライト大阪 (06・6609・9750)
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テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

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