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行動文化 (170)  「悲」 

「人は自分の事を思うているときは地獄にきているのじゃ」といったのは曹洞禅の沢木興道だが、禅を学んでニヒリズムの地獄を脱出できないのはニセ悟りと断じてよろしい。
 禅とは無我の自証である。沢木の「宿なし興道」の看板を「宿なし」だけ余計だと批判した者が禅界にいる。無論そういえなくはないが、批判のための批判の感を免れない。沢木老師の「宿なし」は、剣でいえば「位どり」の心得にあたるのではないか。位どりだというのは、「悲」とは与奪の与の位。殺人刀、活人剣の二つの位でいえば「悲」とは無条件の愛。
 そもそも我々はなんのためにこの世へ生まれおちるのか? むろん意見はいろいろあろう。筆者はそれは「悲しみ」を体験して「自由」を手に入れるためだと思っている。自由がほんとに手に入るかどうかは、体験するしかない。もし悟ったと思っても虚無感が残っていたらそれは間違いなくニセ悟り。最後に残るのが肉体。肉体とは天が与えたもうた「不自由」を体験するための重し。
 禅の六祖に慧能という人がいる。どこへゆくにも石臼を背負っていた。片時も降ろさなかったという。左様。六祖の場合、石臼とは十字架。
 ではなぜ十字架を? この人には老いた母親がいて、慧能が拾ってくる薪を売って細々と暮らしをたてていた。そこへ禅の達人のうわさ。
 若い、ものを知らないということは悲しい。自分を杖とも柱ともたのんでいる老いた母親をすてて禅へ走った。あとはいうまでもなかろう。

 もう一つ。支那事変のとき、本隊にはぐれて山野をさまよい、とある谷間の一軒家をみつけた。いってみると老婆がひとり炉ばたにいて、なにか煮ている。柴戸を蹴破ってとびこみ、軍刀を抜いてつきつけた。老婆はキョトン。張合いがないから老婆をはなし、鍋の中のものをむさぼり食った。老婆はじっと見ていたが、兵が食い終わって出て行こうとすると袖をつかんでひきとめる。?
ひきとめておいてこの婆さん、団子のようなものをボロぎれに包んで兵の腰に結びつける。茫然と立っていると、こんどは竹筒に草の煮汁のようなものを入れて、これも持って行けと持たせた。日本兵、ついに泣きだした。その背中を婆ちゃん、枯れ枝のような細い手で何度も何度もなでてくれたという。
 戦後、忘れかねて新聞の片隅に出していた体験談。蛇足までに。この老婆にとって日本兵は敵ではなく、腹をすかせて怯えている息子だった。
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テーマ: 文明・文化&思想

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