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行動文化 (168) 井上陽水
2013/10/14 Mon. 00:00 [行動文化]
ゆめのあいだに うかべて 泣こうか
わすれたままの 恋のささやき
こよいひととき さがしてみようか
恋の歌が 誘いながら ながれてくる
そっと眠りかけた ラジオからの さみしい
そしてかなしい いっそやさしい セレナーデ
30年ほどまえに知人に聴かせてもらったことがある。
そのときはつまんねえ、バカバカしい歌だと思った。もっとも聴かせてくれた人も良い歌と思ってのことじゃなかったようだが、なにせドアのノブは金属のメダルでなどという無意味なゴロ合わせ、これだけでうたっている歌手。
拙者いま老境。もうみるべきものはみた。することがない。すなわち無聊。はやくいえば退屈。へその緒をきって以来の初体験である。
聴くともなしにラジオ。そこへいきなり♪あまいくちづけ わっ!と思った。
いわずもがな、小生にも人並みに恋愛沙汰のひとつふたつはある。
万葉の恋歌の番組のあとだった。すなわちシチュエーション抜群。先人の体験に照らしても、恋というものがこわれやすいワイングラスだというほどの認識はある。はやくいえば万葉の恋唄との間に時間の距離はない。で、どうなる? どうもなりはしないさ。ただそれだけのことなんだが、ひとつだけはっきりしているのは井上陽水のセンスはいまストレートに響いてくる。
むろん恋の至極が片恋だというぐらいのことは知っている。またけだるさの美意識も。つまり陽水のいう ♪遠い思い出 ゆめのあいだに うかべて 泣こうか とは万人共通の感情なのだということ。
命の余韻、ということなのだろうか。我々世代の男たちにとっては、陽水の歌声はめめしい。だが、いまの小生には陽水はちっともめめしくない。むしろ♪さみしい、そしてかなしい、いっそやさしいセレナーデ。これはいま筆者自身の思いでもある。人生とはすなわち過程。具体的には「今」。人間、過去をすっぱりと切り捨てるのがえらいわけではない。男とは本来、女以上に過ぎ去った日々を忘れかねる生き物ではないか?
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