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行動文化 (158)   無検証試合 

かつて審判員をおかない無検証試合があった。
 試合とはテストのことだが、自分の実力がどの程度のものかを知るために相手を択んで試してみる。だが自分で試すわけだから、他人に判定してもらうまでもなく結果はその場で出る。剣道の場合、打つのは頭ではなく肩だったが、真剣なら致命傷かどうかはお互いに自分でわかる。これがかつての試合で、わざわざ「無検証」などと呼ぶ必要もなかった。
 誰がナンバーワンかを決めるためには自己判定は公平ではないが、武道の勝負とはゲームではない。
 むろんゲームとしての勝負もあってよい。ゲームであることを忘れさえしなければよい。ゲームにも効果の判定にはエコヒイキが働くことはあるが、そのための礼なのだ。

 ゴルフで考えてみようか。
 かつては紳士のスポ―ツとして監視人は置かなかったが、これは紳士としてのプライドである。まあ、最近のスポーツには支援団体などの存在がネックにはなる。審判はやむをえなかろうが、だからといってみんながみんなセミプロになる必要がないことは、歌の上手な者がみんなプロ歌手になる必要がないことと同じである。とくに学校の場合、学力テストをふくめて武道の実力の審判は審査員ではなく、世間に出れば世間が厳しい審査をしてくれる。
 
 明治期には、ゴルフのように武道にも審判員はおかなかった。東京帝国大学予科の剣道の試合には、「みずから直きになんぞ他の判定を要せんや」と、試合者自身が審判を拒否した。それと高段位者の勝負にも審判者はおかなかった。
 これならよくわかる。高段位者の試合には「行司」という立ち合い人はおいた。試合開始は現在のような「はじめ!」ではなく、「拝見」。およそ三太刀の勝負が決したとみて、「よろしゅうございます。それまで。」で終わる。その間、判定がましいことは何も行なわなかった。
 もっとも東大予科の試合にもいつの間にか勝負判定を行なうようになって無
検証試合は時代の波にのまれていったが、ともあれ一時期はわが武道界にも無
検証試合があった事を知って、安心したと同時に一抹の寂しさを覚えた。▲▲

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テーマ: 文明・文化&思想

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