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行動文化 (156) 武士道
2013/07/22 Mon. 00:00 [行動文化]
忠臣蔵の舞台である元禄時代の日本にはたしかにそれらしいものはあって、さまざまな場面で人を拘束していますが、しかしそれはたとえば「名誉」とか「恥」とかの世間体にすぎない。面子もこれ。「人前」とも「武士の一分」とも呼ばれた行動律(ポリシー) とは人それぞれに思い描いているものでした。同じ武士でも立場や視点によってさまざまな差異があり、「義士」たちの処遇については意見が分かれた。最終的には荻生徂徠の意見が採られていますが、その徂徠自身、「武士道」については戦国期の武士たちの行動のほかには、これといって由るべきものはなかった。それはそうでしょう。そうでないとリアリストの荻生徂徠ではない。
武士道とはマニュアルではなく、当人なりの識見とセンスによる行動の選択だったという結論になります。そしてこの事は現代の我々にとっても同じことなのであって、あとは整合性や説得力の問題になる。比較検討の材料としては、徳間書店の『武士道と葉隠れ』(2012、5月発行) が手ごろでしょう。
戦国武士道はエゴOK
「武」とは戦闘準備が整っていることを示す文字。この「武」を「矛」を「止」めると解釈して戦争放棄に結びつけることが戦後流行しました。今もまだ残っていますが、矛を鎌槍の象形とするのはまだしも止は「止める」ではなく、古くは「足」の象形。つまり「武」とは槍をかついて威風堂々と歩いている姿。
なんのために槍を担いで歩く?
知れたこと。槍とは物干し竿ではない。人を刺す道具です。
ではなんのために人を刺す?
むろん行く手を遮るものを斃すためだよ。虎やオオカミの牙や爪にあたるのが人の場合は刀や槍、また現代の銃砲やミサイル。侵入する者や行く手を遮る者があれば斬ってすてるのが、昔も今も武者の仕事です。
ただ、現代の戦いとは多分に知力戦、つまり外交戦です。孫子も百回戦って百回勝つよりも、戦わずに相手のシェアをまるごと戴いてしまうのが一番儲かるといっている。そりゃそうでしょうよ。戦争もつまりはソロバンなのです。アタマのいいものが勝つ。バカじゃ勝てません。
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