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行動文化 (155)  復古神道 

日本人の行動文化には国学、つまり賀茂真淵――本居宣長へと流れる「復古神道」の流れがある。国学、という二文字には頑迷な国家主義の匂いがあります。水戸学への連想もそれですが、しかしそれは復古神道の解釈のひとつにすぎない。「古道」の源流とは、「こころ直きときは、むつかしき教えは用なきことなり」という、「正直」だけを説くいたって屈託のないものです。それで「無思想」という批判もあるのだが、しかしこれはこれで日本人の思想なのです。
 この一派は、仲良く暮らすのに学識や主義主張が邪魔になるなら、そんなものは捨てよという。立場を超えてみんな仲良くやっていくことを邪魔する者がいたら、道理や理屈ではなく怒鳴り声と腕力で阻止せよ、ケンカの種がなかったら酒を飲んで歌でも歌い、踊りでも踊ってろ、支那の連中はえらそうに「節欲」を説くが、活発な感情表現こそが生きている証しなのだ、感情にはブレーキなどかけず、「口げんか」ならおおいにやれ、殴り合いまではOK、そのうちくたびれる、飲んで騒いでいればマシンガンだのミサイルだの毒ガスだの、大型のケンカ道具をつくることは思いつかない、と。

 復古神道は「教義」をもっていない。
 教義がない事を、たとえば司馬遼太郎氏などは冷笑的にとりあげているが、はっきりいってこれはピンボケ。「無思想性」などという云い方で自虐的に神道を取り扱うのが日本の疑似インテリたちだが、無思想じゃないよ。いまや思想の城壁を持たないこと自体が欧米へ輸出できる新しい思想なんだよ。
 人はただ正直でありさえすればよい、必要なものがみんな身に具わっているのは、たとえば眼、口、耳、鼻や手足が具わっているようなものだ、ことさらな「教義」など無用という日本神道の主張は、茫然とするほどに単純明快な、ノーベル賞ものの新しい思想なんだが、あまりに明快すぎてよけいなリクツでがんじがらめになっている頭には有難味がうすいだけのことだろう。
 
天衣無縫 本来、やまとことばとは感性用語なのである。気の遠くなるほどの年月を日本人はこれでやってきた。歌には向くが論理構築には向かない。
技術立国のいまの日本。論理はむろん必要。だが人はパンだけでは生きられない。その通り。酒もないとね。うふ。

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テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

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