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行動文化 (132) 新渡戸武士道 

武士道といえば新渡戸武士道がよく知られているが、山本常朝の葉隠武士道、山崎闇斎の臣道。山鹿素行の士道をふくめて、これらはみな体制に奉仕するための「滅私奉公」つまり兵卒の心得である。個人の自律ではない。とくに新渡戸稲造は、岩手盛岡藩の武士の家に生まれ育った人ではあるがクリスチャンで、国連事務次長(1920)や太平洋問題調査会長(1929)をつとめたデスクワークの現代人である。
新渡戸武士道はデスクワークで観念化された武士道。アメリカではよく読まれたようだが、日本の研究者たちの間ではいま、ほとんど評価されていない。
 思想は現場を離れるとお話になってしまう。
武士道とはマニュアルではない。不埒な戦闘者のポリシーである。汗と血の匂いのする、本音に忠実で闊達な戦闘者たちの行動原則を求めるには戦国期まで遡ってみる必要がある。

新渡戸武士道でまず気になるのが「自分の命は主君に仕えるための手段と考えよ」という言葉。この部分は山崎闇斎の臣道の場合もまったく同じだが、ちょっと待ってもらいたい。主君と家臣との間柄とは本来そんな一方的なものではない。状況の設定もなくそう簡単に言い切ってよいのか? これでは主君への無条件の「献身」の要求である。
合戦の場合はたしかにそれが心得だったと思う。いざという場面では身を挺して主君を護ろうともしただろうが、しかしだからといってそれをこんな形で強要されると、不埒な「自律」の心得あるいは不文律としての日本の武士道が、下郎相手の有無を言わせない「規律」や「キマリ」の押しつけになってしまう。
新渡戸自身は伝記を読むと人格の侵害に対しては並はずれたシャープな感性を持つ人のようだが、武士に対するこの「無条件の献身」の要求には一貫性を欠くものを覚える。
 
 たとえどんな時代になろうと、これだけは忘れてもらいたくない。「キマリ」で縛ろうとするのは武士に対する遇し方ではない。武士から誇りと意地を奪ったら、あとに何が残るのか。
 新渡戸武士道とは、いってみれば「主人いのち」の忠犬武士道。筆者以外の日本人がどう思うかはともあれ、2012年の世界に持ち出して意味があるのは忠犬武士道ではなく、「自恃」を背骨とする不埒な狼武士道だろう。

※近刊予定 『武士道と武道(英文)』  ヘッドライト大阪(06・6609・9750)
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テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

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