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行動文化 (130) 禅とは 

トレバー・レゲット氏(BBC日本語部長)の不満に答える
『紳士道と武士道』の中で氏は、鈴木大拙の禅の解き方には坐禅が書かれていないと指摘されている。
坐禅は「摂心」ともいって心の散乱を防ぐ手法の一つではあるが、しかし禅の体得のためには必須の修行法ではない。むしろ今は言語化して禅に接近する方がロスが少ない。まあ、その鈴木大拙の禅の言語化に不納得ということなんだろうが。
禅とは主体性の回復である。だがこの「主体性の回復」とは一般論としての人間の主体性の回復ではないのだ。客観論をいってもはじまらない。それこそが最も禅に遠い態度だ。
だからこその「言語化」なのである。むろん言語化とは客観論ではあるが、たとえ観念論であったとしても的を絞りこむ事はできる。
たとえは、「私」とは誰か。野中日文。それは「名」、つまり観念にすぎない。「野中日文」と答えているのは誰か?
ここでハタと行き詰まる。行き詰まるのは、「行き詰まった」とわかるわけだから、少なくともバカではない。見込みはある。

「主体性」の追究の徹底度が問題になる。追究が徹底すれば、叩けよ、さらば開かれん、やがて「主体性」に意識のピントが合う日が来る。しかしこれは坐禅をしたからといって到達できる境地ではない。小生自身けっして坐禅はマネごとしかしてはいない。居眠りの時間のほうが多かったが、振り返ってみると坐禅は主体性の確立には無効。小生の場合、なんとか目が開けて「自分」に出会えたのは、坐禅によってではなく、やはり『臨済録』や『無門関』などの文字を相手の知的格闘によってである。
一時期「自分捜し」が流行ったが、さて何人が「自分」を捜し当てたか?
「自分」とはその「見失ってしまった自分」なるものを捜し歩いている本人なのだから、これは自分がつくっている影を追いかけているのと同じ事なのである。追うことをやめて立ち止まりさえすればよいのだ。
自分とはかくかくしかじか、と思っているのはイマジネーションの働きだが、問題の「自分」とはその「イマジネーション」なのだから、これは客観的には自分で自分を捜しているという、まあジョークとしてなら使える滑稽な眺めである。
※書画カレンダー 「剣者野中日文の筆のすさび」(2013年 部数限定)
              ヘッドライト大阪 (06・6609・9750)
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テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

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