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行動文化 (129) 自由とは「身勝手」のこと 

誤解されているが、「自由」とはフリーダムではない。漢字で書けば「自由意思」のことだが、リバティといってもちょっとちがう。やはりそこには○△からの解放というニュアンスが残る。これはどういう事なのか?
思うに英語の場合は具体的な行動にピントを合わせるが、アジアの場合は「心情」に注意が向かうということなのか。
言い方を変えてみよう。自由とはマイペースのミーイズム、つまり主体的な行動を意味する中国語です。自分以外の、「神」をふくめたいかなる外的な権威にも支配されない事を宋時代の中国では、自らに由る、つまり「自由」と呼んだ。しかし「キリストにも支配されない自由」などというと欧米人にはとたんに反撃される。思うにこれは東洋の垂直思考と西洋の水平思考の衝突(バッティング)ではないか?

しかし自由はよいが自分勝手はよくない? 
そんなこたないぜ。自由とは自分勝手のことだよ。問題はその「自分勝手」を使いこなせるかどうかだ。
人をふくめて生き物はすべて利で動く。「自由」についても武道の世界で敵を相手に使いこなせず、戦場で使えないなら無意味。太平洋作戦では米英は自由に日本軍を自由に支配してハワイのパールハーバーに誘い出したが、日本はルーズベルトやチャーチルの都合や事情に支配されて一片のハルノ―トで操られてしまった。オトナとコドモのケンカだった。

「自由」については鎌倉円覚寺の夏季講座で鈴木大拙の「自由」の講演を聴いた。当時小生はまだ19歳。敗戦直後で、アメリカから持ち込まれた「自由」と「平等」にはまだなじめなかった。この時の鈴木大拙の講話は、「自由」をみんな何々からの自由というふうに受け取っているようだが、そんな自由は監獄の檻の中に閉じ込められている囚人の自由でしかない、自由とは主体的な行動のことだという主張が耳に新鮮だった。
禅の視点からいえば、「自由」とは徹底的に主体的な行動のことをさす。しかしこの事に気づくのはそう簡単ではない。主体的に動けるためには「自分」を理解していなければならないが、この解り方の徹底度が問題なのである。たとえばこの自分を「行為者」とか「主体性」とか説明したとしよう。ではその説明しているのはいったい誰なのか?
※書画カレンダー 「剣者野中日文の筆のすさび」」 (2013年 部数限定)
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テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

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