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行動文化 (123) 武士道 

はじめに断わっておく。ここでいう「力」とは筋力のことではない。政治力をふくめた知力のことだが、しかし「知力」というとまた「精神力」と間違える。太平洋作戦の敗北で懲りたはずだ。
その「精神」は、政治力や財力や戦略に置き換えられてはじめて「力」になる。具体的に言えば太平洋戦の場合、「精神」とは竹槍ではなく飛行機であり空母であり弾薬だった。さらに一歩踏み込んでいえば太平洋戦へなだれこんだハワイのパールハーバー攻撃とは、いわれているような卑怯なだまし討ちの先制攻撃ではなかった。ドイツを叩くための口実としてアメリにおびき出され踊らされた、恥知らずでぶざまな茶番だった。
欧米はアジアの黄色人種を人間とは思っていなかった。この日本軍の無知。彼を知らず我を知らず。勝てるものか。
 「精神」に似た響き方をする言葉に「清貧」がある。中野孝次氏の『清貧の思想』は記録的な売れ方をした。1、内容空疎 2、マスコミ絶賛 3、バカどもが有り難がる この三点セットは『バカの壁』の場合によく似ている。
「清貧」についていえば、清貧とは「知足」の謂いなのであって、乏しきに耐えることではない。そもそも「清」も「貧」も君子の意識にはない。どうでもよいことだ。清貧を口にするのは己れの無力の美化。ハッキリいえば甲斐性なしの自己弁護。女たちは甲斐性なしを男とは思っていない。
 
日本武道は死生観を失って、いまやラチもないスポーツ競技になってしまったが、こんな状況の中で講道館の嘉納治五郎を思い出す。この人の「精力善用自他共栄」に対する、これは武道論ではなく経済論だという意見は今もあるが、経済論でどこが悪い。経済とは経世済民の略称。つまり政治の要諦。嘉納治五郎はすぐれた政治家でもあった。講道館柔道を警視庁に売り込んだ手法にこの事はよく現われている。嘉納がいたら日本柔道とヘーシンクとの勝負など許さなかったろう。理由? 戦略的でない。ヘーシンクに勝つ事などどうでもよい事だ。オリンピックへの参加も同じこと。もっと大事なことがある。日本武道とは力の科学である。力とは筋力ではない。人とは知の生き物。武道で研ぎ澄ました知力を匹夫の勇のレベルでなく、小は自分個人の経済力から大は世界経済に活用しなければならない。孫子、蔚繚子を読むことだ。孫子と聞いて首をすくめるようで経済戦に勝てるものか。金メダルなど、もらう側ではなく与える側に廻ることだ。他人にホメてもらっておぬし、うれしいのか?
※書画カレンダー 「剣者野中日文の筆のすさび」 (2013年 部数限定)
             ヘッドライト大阪 (06・6609・9750)
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