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行動文化(102) 植芝盛平
2012/07/09 Mon. 00:00 [行動文化]
「別行動? どうするんだ?」 答えない。問い詰めると、演武を見に来ていた鹿島神流の国井が、「合気道の連中はフマジメだと言いました、許せません、これから国井を殴ってきます」
二代目はこれを制した。筆者はあとで二代目から聞いて筆者なりに興味をもった。二代目としては制止して当然。菅野は元気者だが、当代随一との評もある鹿島神流の国井善哉を殴れるものかどうか――結局この勝負実現しなかったのだが、惜しい事をしたという思いもないではない。
師の植芝盛平の実力については、批判意見もある。筆者自身も身近にいて師の言葉のどれが真実でどれが無邪気なウソなのか、はじめは見抜けなかった。鉄道のレールをひとりで担ぎあげたとか、直系20センチもある孟宗竹を脇の下でベリッ!と潰したなどという話は明らかにウソ。「ワシの頭は真剣で斬っても斬れんのじゃ」も子供だましのウソにきまっている。
どういうのだろう、あれ。稽古のあとシャワーを浴びて浴室を出ると、奥から師がトコトコとやってくる。あ!と、一歩さがって道をゆずると、それまでトコトコと歩いていたのが急に反り返ってエラそうな歩き方に変えた。なにも急にイバルことはないだろうに、合気道の植芝盛平とは、まあそんな人。
武芸者としての実力はむろんあった。鹿島神流の国井善哉と立ち合ったらどんな勝負になるか、人によって見方はさまざまだが――筆者としては植芝盛平が発散する「神気」を買う。むろん国井善哉は本物。それにくらべて植芝盛平の方はどれがホントでどれがウソなのか見えにくいところがある。
茨城の岩間へ帰郷のあいさつに行ったとき、天下の達人植芝盛平がおでこに擦り傷をつくっている。「その傷、どうなさったのですか?」「なに、風呂の焚口へ足を踏み外してな、エイッ!と気合いをかけて宙返りをしたのじゃが、壁との間合いが近くて」他人には聞かせられない話だ。
このとき師は居合との真剣勝負の話をしてくれた。今となっては宝物。
「何か一手、最後のご教授を」師は気軽に引き受けて、立て。「正面の入り身」を教えてくれた。合気会では入門の時に教える「一教腕おさえ」。入門技であると同時に極意の技。「これを三千人にかけて研げ」。「武道で立つつもりであろうが、気の線は三千本用意しておけ」。往時の武者修行とはこんなものである
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