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日本の行動文化の特性 

執筆者の思想的な立場と視点
インタネットの「野中日文」の検索で執筆者に関するデータはすべて入手できるが、筆者の思想的な立場は、まず小学生のころから愛読してきた東洋の実践論である『論語』、『孟子』などの朱子学の古典、それから成人後の『孫子』、『蔚繚子』などの戦略書、禅を経て本居宣長、賀茂真淵の復古神道への回帰である。興味本位に渉猟したのだが、結果的には先輩方が学ばれた神、儒、佛という三系統の学問のあとをたどったことになる。
武道については中学生当時からの柔道、のちの剣道(高野佐三郎門)への転向、その後の無刀流、直心影流などの古武術の渉猟を経て合気道開祖植芝盛平に出会い、その直伝の武術と心術を学ぶ幸運に恵まれ、闘争の技術がそのまま万物万類を愛護する道へつながる日本武道の構造を知った。 
本稿は上述の三教と開祖直伝の合気道神学(言霊学)を下敷きにしたものだが、とくに本稿の中心軸である「武道行動学」は、筆者の直心影流の剣と禅(臨済系隠山派)の師である鐡舟会の大森曹玄の武道観を、不肖ながら門下の末席につらなる者として引き継いだものである。 師は、

武道が時代性を失ってしまったのは、武道を武道場の中でだけの鍛錬と思っていて、日常の対人関係の中での心術(心の技)に置き換えるという視点や努力を怠っているからだ。

と言っていた。これは心形刀流の剣の使い手であった平戸藩主松浦静山の視点とまったく同一の視点である。だがこの視点をもつ者は現代の武道界にも数は少ないが、いる。 
残念ながらお名前を記録していないが鉄鋼業界に、「仕事に役立つ」からと「不動心」の鍛錬が目的で毎日欠かさず剣道で汗を流しておられた。当時6段? だったか、段位についてはとくに望みはないから昇段審査は受けず、公式の試合にも出ないとのことだった。「ほう、まだこんな人がいるのか」と嬉しかった。   
アスリート(スポーツ芸人)だけになってしまっている武道界にも、まだ捜せばこんな人はどこかにいるはずである。
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新刊企画 「武士道と武道~日本人の条件」 (英訳出版の試み) ~その二 

続き~
合気道の場合も状況は変わらない 欧州人の中でも日本文化に通じている階層は合気道を「動く禅」と評価しているが、欧州へ出かける合気道人の中に、本格的に禅を学んだ者が何人いるだろうか? 坐禅の体験者さえほとんどいない まして今回の「武道必修」に、日本人の行動文化の根底を支えている「神道」、それも賀茂真淵、本居宣長の「復古神道」についての素養のある者が一人でもいるのだろうか? 
武術といえば兵法、兵法ときけば『孫子』だが、日本の武道界は『孫子』や「礼儀作法」ときくと首をすくめる かつて小著『武道の礼儀作法』の執筆企画を知って首をすくめた者の一人が日本武道館のトップである ほかにも店頭に出た同書をみて「お堅い本をお書きになりましたなあ」とあきれ顔の武道界の重鎮がいる こんな連中を相手にしていてもはじまらんではないか

国敗れて山河あり 春はさくら 秋の紅葉 白雪を戴く秀麗な富士――日本
の山河はまだ十分に美しい 老いを知らず衰えを見せない永遠の美女―― 惜しむらくはこの美女に配し、この美女を護るべき一騎当千のサムライが――いないとはいわぬが少なすぎる 一人の本物のレディには八人の屈強なナイトのエスコートがつくべきだ 
このナイトたちを必修武道で育てたい サーベルにも拳銃にも頼らない現代のナイトたちを 問題はその手法だが、この春からの「必修武道」にそんなものは用意されていない

義務教育課程での「武道」では、「無事故」は必須の条件になる
無事故とは文字通りの「事故ゼロ」でなければならない 指導者は教師としてではなく、「必修武道」にわが子を託する親の立場で子供たちの前に立て
もし子供たちに傷を負わせたら「自裁自決」の覚悟で子供たちの手をとれ 
これが日本のサムライの振る舞いだ 確信を持って少年たちの実人生に有益な、「武道」による学習成果を挙げよ 関係者諸士にその覚悟と用意はあるか
生涯を武道とともに過ごしてきた筆者は、そのための助言として本稿に松浦静山の「礼剣同源」論を援用した 筆者独自の視点からの「武道行動学」の提示である ご活用願いたい 告訴騒ぎをひきおこして、法廷に「被告」として立たされぬためにも
「武道」こそは日本の行動文化の最後の砦 中等教育への武道復活大いに結構 だがそれを今後の日本を担う少年たちに、いったい誰がどう伝えるのか?
筆者もう残された時間がない 本稿の英訳出版で死に花を咲かせたい。
この英訳出版の試み、翻訳作業を受けて頂ける同志が居られればご協力願いたい。 

      平成壬辰春 日向国 左近太郎野中日文

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新刊企画 「武士道と武道~日本人の条件」 (英訳出版の試み) 

英語版を先に出す理由
 英語文化圏むけの発行は方便 日本人に読ませるために、まず英文で出す
 平成の日本は敗戦時の日本文化解体で正体を無くしている 小生の武道論に、日本人は反応しない 日本の出版界の大半は「武道」を単なる競技スポーツか、普遍性のない特殊な世界と思いこんでいる この事が新刊企画の盲点になっていて、武道の「武」の文字があるだけで本は売れませんよ、などという 事実そのとおりだろう
 だが欧州を知る者は、彼等の日本文化、とくに「武道」や「武士道」の研究が本物であることを知っている 欧州の武道界に変貌する前の本物の武士道と日本武道の精髄を紹介すれば、彼等は必ず反応する
 欧州が動けば日本は小生の意見を見直す これは過日の上杉鷹山事件で実証済み 野中日文って誰だ? となる 
 むろん売名である 知られなければ仕事は始まらない マーケティングのプロなら「ん?」と思うはずだ 新分野だから
 小著『武道の礼儀作法』は、「礼に始まって礼に終わる」といわれている武道界に礼書が一冊も発行されていないというウソのような現実を知った事が発端だが、しかし日本の武道界も出版界も小著をいまだに無視し続けている 無視の理由はあとで知ったが、これが日本人なのだ

 欧州の日本武道研究の真剣さについて弓道の場合をとり上げれば、オイゲンへリゲルが『弓と禅』を発表して以来、彼等は日本人はみんな弓や禅を学んでいると思い込んでいて、日本人と見れば「弓」や「禅」についての専門的で高度な鋭い質問を浴びせてくる ところが弓の指導に欧州に渡った弓道連盟役員諸公が、これに答えられない 日本人の器量を下げるために海を渡っているようなものだが、いまや日本の柔道界では欧州に受講研修にでかけることは常識、 恥とは思っていない
 この春、日本の教育界は全国の中学校に「武道」を必修科目として採用する
有意義な企画のようにきこえる だが、関係者たちは「武道」にどんな教育効果を期待しているのか? 
 どうもそれがはっきりしない 「伝統文化」とか「武士道」とかいう言葉はさかんに出てくるが、ではそれが現在の日本の武道界にどんな形で存在するのか? 問いかけても返事は返ってこない 日本的といえばいかにも日本的だが、筆者は武道人の一人としてこの状況を見過ごせない。

以下英訳サンプル~

raison d'etre – Justification for existence
Why do we exist in this world?
As for me, I do not think there is any particular purpose or reason for me to be
here in this world. I was here before I myself knew it.
Whether we need any reason to exist in this world – that actually varies people
to people.
Japanese people was likely in the past and is likely now not to think about such a
thing, saying that “I do not care about why I exist here and I do not want to even
think about it now”. Some people convince themselves by explaining
“Japanese has the characteristics of not having any principle”. Ok, fine with me.
Is there any problem if we do not have any principle?
Not having any principle also means “Japanese people is immune to any
principle” if we look at it from the spirit of the samurai (Bushido) point of view. I
will explain about this in the latter chapter but, Japanese way of thinking really
means the way of thinking based on Shinto. Shinto does not have religious
principle. Even if we do not think about this and that, we are all equipped with
everything we need in our body and mind.
We do not exist for something. We can decide how we use our life by
ourselves. It is a matter of how we take spiritual position.
Decartes said at a time in the past that “cogito ergo sum – I think, therefore, I
am”. He shouldn’t have said that. We, Japanese, have known this for ages.
In the first place, why the hell we rely on the assumption that we have the
justification of our existence?
Do we really need “self”? Does the body or the consciousness actually mean
“self”?
If you are going to find the answer to that question, give it your best shot until
you reach the point where you suspect the existence of yourself. Once you
reach that point, suddenly you will realize that there exists no “self” anywhere.
This is the way of thinking based on “Zen”, but Zen was not originally created by
Japanese. Zen was brought over to China by Bodhidharma and eventually
crossed the ocean to Japan.
It is hot in India and people try to bring themselves into deep meditation under a
tree or in a cool place on a stone to create a variety of thoughts. I think
Descartes is also pretty argumentative, but he seems to be more childish like an
academically model student in a junior high school. That is why he after ages
brought a concept “I think, therefore, I am”, which is fuss and a source of
meaningless controversy. In Zen, this means “to create a disturbance without
wind”. I would take it serious if it would be one of pleasures using pinwheel to
kill time, but…


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