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行動文化(179) 韜晦 

漢朝では許負、鉗徒、東方朔といった相士たちが宮廷へ出入りしているが、中でも東方朔が奇行でいまに語り継がれている。どんな人物か。
この先生、万巻の書を読みつくした大変な学者なんだが、しかしけっして品行方正な人物ではない。どっちかといえば品行方正どころか不埒千万な自由人。その蘊蓄には尽きるところがなく話は面白いから高祖はいつもそばに置いて話相手に使っていたが、相手が東方朔ならさもあろう。俸給のほかの絹織物や肉などは担いだり懐へ入れたりして持ち帰り、小隠は山林に隠れるが拙者のような大隠は市中に隠れるのだと称して歌舞音曲を愛し、酒を愛し、美女を愛し、その美女も少し古くなるとすぐ新しいのと取り換えるから、この先生の周囲には若いべっぴんさんしかいなかった。

まさに市中に韜晦するとはこんなものだと絵に描いて見せたような生涯だが、「東方朔」の名は茶席の花に用いられる薄紅大輪の椿。この花容に東方朔とはまたよく名付けた。名付け親の学殖が偲ばれる。
こんな次第で自由人東方朔の名は今にいたるまで衰えない。とぼけた野郎を南九州ではトボサクと呼ぶ。語源はおそらく東方朔先生。小生、この人を大先輩と思っている。なによりもまず八方破れの不埒なところが気に入った。
この世とはしょせん退屈なところ。生き方としてはおそらく「韜晦」がベスト。孔子はヒマで困るならバクチでもうってろという。論語の中で唯一気の利いた台詞といえるのがこの「バクチでもうってろ」

そもそも孔子先生、立派な事をいうわりにはすることはいつも失敗だらけ。実情は大勢の門人たちを連れて歩きまわったというだけの生涯ではないか。
立派な事はいっているがみんなソバ屋の釜の中。つまり湯(いう)ばっかり。とてもお手本になるようなご仁ではない。バクチを勧めるならもっとマシな連中がいるぜ。本職のやくざのお兄さんたちは初手から孔子のようにえらそうなこたいわねえよ。なにしろ世の中でいちばんえらいのは堅気の衆。つぎにえらいのが乞食。ひとをおどしてなんぼのやくざなんざあいちばんの下郎なんだと、ちゃんと身分をわきまえちょる。おっと、ものかきがいた。こいつらはどぶ板の上を這ってあるくのが分相応。小生長年お勉強をして到達した結論がこれ。

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行動文化(178) 宇宙とは 

我々が「宇宙」と呼んでいる無数の星を浮かべ、無窮の広がりを見せる世界とは、いったいいつ、どこからどんなふうに始まったのか?
なにもなかった? 考え方の順序としてはそういえなくもない。だが何もない世界に物質が出現したのは、幾他の太陽系や星群が生まれて地球その他の星にも生物が生まれたと考えられるのであるから、「何もなかった」状態とはあくまでも考え方としての順序にすぎないのであって、実際にはそんな状態はあり得ない。そこにはやはり物質を生みだす何らかの力があったと考えなければならないが、この根源の力が物質を生みだしたのであるから、これは物質の母体ともよぶべきもの。この物質母体から生み出された物質は、現代の自然科学が証明する限りにおいては電磁体であるから、この物質母体もまた電磁力をおびたものでなければならない。しかしこれが「人」という精妙極まりない意識活動体にまで発展したのであるから、それは単に電磁力しかもたないものではなく生物意識の根源力ともいうべき「意識の原始体」ともみなければならない。

意体 物質面からは物質の母体。また意識面からは意識の母体。これをどう呼ぶか。意識か物質かのいずれか一方へ偏することは妥当ではない。ひとまずこれを「意体」と仮称しておく。
この意体の内容すなわち本質はむろん陰と陽との両面を持つ「意」。意の主導によって意体の内部に「内力(内から外へ向かう力)」と「把力(外のものを内に引き捉えようとする力)」の二つの力が生まれ、この力が極限にまで達した時、意たちは猛烈な自己分裂を起こし、ここに電気を帯びた微粒子が新しく誕生する。この分裂作用がくり返されてやがて分裂の限界点に達するのだが、原子の最微分化された最小単位を、ここではかりに「意子」としておく。
この意子は電体としての意子の分裂したものであるから、当然未熟な電気をおびていなければならない。この意子の誕生によって意体はその原形を失い全面的に意子へと分裂したのであるから、意子の発生は意体の転生といえる。
今日の物質が概念からいえば何らの制約も限界もなかった物質母体ともいうべき意体よりも、この意子をさして物質の創始原体と呼んだほうが適切である。

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行動文化(177) あの世へのリモートヒーリング 

筆者によく気の合う叔父がいた。
まどろんでいる明け方、「おい」という声がする。みると枕元に叔父がいて、
「呼べば通ずるぞ」
「あ、叔父さん」
もういない。
明けるのを待ちかねて叔母に電話をした。
「昨日は叔父さんの命日でしたかね」
「どうしたの? こんなに早く」まだ寝ていたようだ。
「おじさんが来ました」
一瞬黙ったが、やがて
「命日じゃなかったけど昨日が子供たちが集まるのにちょうどよかったのでね、お寺からもきてもらって法事をしたの」
つまり「死」とは完結ではない。好むと好まないにかかわらずまだ後がある。

祖母の場合は病気だった。上京中にみまかった。小生の名を呼び続けながらの旅立ちだったという。
やはり夢に現われた。全身無残に病み崩れて、よろばいながら谷間から現われた。それも一度ではなく三度。
しつっこく現われる。はじめ、誰なのか判らなかった。夢中で追っ払ったが三度目にようやく祖母?と気がついた。幼い筆者に絣の羽織と着物を縫って着せかけてくれた祖母。
祖母とわかれば手はある。筆者はこの祖母に一子相伝の呪法を伝えられている。恩返しの時節到来。祖母に教えられたのは一回だけだが、これを寝ても覚めても約三週間つづけた。
祖母がまた夢に現われた。この時は姿は見せなかったが、言葉で、「おかげできれいな体になれたわい。ありがとよ」といった。
二度目には姿、それも素肌のまま。養蚕につかっていた広間の板敷きに、こっちに背を向けて横たわっている。お婆ちゃんである、プロポーションはあまり良くなかったが、こんな体になれたよと美しい雪白の素肌を見せにきたのである。
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行動文化(176) 「死」とは、解放 

視点の問題である。かけがえのない人の死はむろん悲しい。だが、人とは肉体ではなく不滅の霊魂なのだと知っている者にとっては、その悲しみの質はかなりちがったものになる。事実、仏教も神道も死を終末とはみていないが、これも垂直思考の産物。もっとも専門家でない善男善女には死後の消息は不明。かりに説いて聞かせても精緻な哲理の理解は無理。ではどうするか。信ずる者は救われる。「信」しかない。
肉体とは霊の神殿である。地上とは仮の世。量子力学の研究者たちによれば、時間空間をふくめてこのガチガチの物質の世界とは「観測者効果」(イマジネーション)によって描き出されているバーチャルリアリティであって、いわば一種の消滅の実験室。これをうたうのが「空」の哲学である般若心経。この肉体を自分と思っている人はまだ多いが、人とは肉体ではない。つまり物理法則には支配されない。物理法則に支配されるのは人ではなく、人の保護室であり道具である肉体。小生、いまこそ確信をもっていえる。人とは霊。つまり人とは肉体ではないから死なない。「死」とは、人が耐用年数のつきた肉体を脱ぎ捨てるだけのこと。これは信じるとか信じないといったレベルの問題ではない。霊魂とは形而上の存在である。物理法則には支配されない。
人は死なない 人は「死」で終わるわけではない。あの世というものがあるかどうかは、これは考え方などというものではない。死は厳然として、ある。そして「天国」も、また「地獄」も、ある。事実、筆者はそこへ行ってきた。いや天国へではなく地獄へ――
夢を見た。追尾する大勢の敵の囲みをのがれて、高い崖の下の河原にいた。丸い枕ほどの石がゴロゴロと散乱している河原。そこを筆者は裸足で歩いている。当然足が痛い。みると足の裏が切れている。丸かった石がいつのまにか鋭く尖って、先端に赤い血。見ているまに血――つまり筆者は地獄の剣山にきていた。
血の流れる足をひきずりながら河原を移動した。――と、眼の前に枕ほどの石がゴロゴロと転がりながら流れている支流らしいものがある。よくみると、ゴロゴロと流れているのは石ではなく、人の頭蓋骨。これが右手の下流の洞窟の中へと流れ落ちてゆく。洞窟の中は暗くてみえない。轟々とこだまする音響のみ。さすがにここで、「ここは地獄だ」と思った。地獄とわかれば方法はある。「破獄」という言葉がひらめいた。が、しかし周囲は滴り落ちる水にぬれて光っている冷たい絶壁。これではとても――。エ―イ! と九字をきった。と、どうだろう。一瞬に氷壁は消えて、筆者は路傍に満開の梅花が匂い、ウグイスが鳴いているのびやかな山里にいた。

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行動文化(175) 石臼 

禅の六祖に慧能がいる。
慧能はどこへ行くのにも石臼を背負っていて片時も降ろさなかったという。左様、六祖の場合、石臼とは十字架。ではなぜ十字架を? 
この人には老いた母親がいて、慧能が拾ってくる薪を売って露命をつないでいた。そこへ禅の達人の噂。
若い、ものを知らないということは悲しい。自分を杖とも柱ともたのんでいる老いた母親をすてて禅へ。あとはいうまでもなかろう。

もうひとつ。支那事変のとき、本隊にはぐれて山野をさまよい、とある谷間に一軒家をみつけた。いってみると老婆がひとり炉ばたにいて、なにか煮ている。柴戸を蹴破ってとびこみ、軍刀を抜いてつきつけた。老婆はキョトン。張りあいがないから老婆を放し、鍋の中のものをむさぼり食った。老婆はじっとこれを見ていたが、兵が食い終わって出て行こうとすると袖をつかんでひきとめる。?
ひきとめておいてこの婆さん、ダンゴのようなものをぼろ布に包んで兵の腰へ結びつける。茫然としていると、こんどは竹筒に草の煮汁のようなものを入れて、これももっていけと持たせた。日本兵ついに泣きだした。その背を婆ちゃん、枯れ枝のような細い手で何度も何度もなでてくれたという。
戦後、忘れかねて新聞のかたすみに出ていた体験談。この老婆にとってこの日本兵は敵ではなく、腹をすかせておびえている息子だった。

日本神道に「教義」はない。
司馬遼太郎氏だったか、日本神道に教義がないことを冷笑気味に書き、また禅学の秋月龍珉も「日本神道を甘やかすな」などとえらそうに書いている(『大乗禅』)。これが日本の疑似インテリの病理。
日本神道にはこざかしい「教義」などない。
むろん国家神道の場合はべつだが、賀茂真淵、本居宣長の復古神道とは「こころなおきときはむつかしきおしへは用なきことなり」なのであって、高い位置からは低い谷間はよくみえるが、底辺からは頂上は雲霧に遮られてみえない。
復古神道が説くのはただひとつ、「正直」。すなわち「歌」。支那流の「忠孝」も「仁義」もない。
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