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行動文化(161) 東方朔 

漢朝では許負、鉗徒、東方朔といった相士たちが宮廷に出入りしているが、中でも東方朔がいまに語り継がれている。どんな人物か。
この先生、万巻の書を読みつくした大変な学者なんだが、しかし決して品行方正な人物ではない。どっちかといえば品行方正どころか不埒千万な自由人。その蘊蓄には尽きるところがなく話は面白いから、高祖はいつもそばに置いて話相手に使ったという。相手が東方朔ならさもあろう。俸給のほかの絹織物や肉などは担いだり懐に入れたりして持ち帰り、「小隠は山林にに隠れるが、拙者のような大隠は市中に隠れるのだと称して歌舞音曲を愛し、酒を愛し、美女を愛し、その美女も少し古くなるとすぐ新しいのと取り換えるから、この先生の周りにはいつも若い美女しかいなかったという。

まさに市中に隠れるとはこんなものだと絵に描いて見せたような生涯だが、「東方朔」の名は茶席の花に用いられる薄紅大輪の「西王母」の枝変わりとして二十一世紀の今も残っている。椿好きなら知っているはずだが、酔っぱらったような斑紅色の椿。この花容に「東方朔」とはまたよく名付けた。名付け親の学殖がしのばれる。
こんな次第で自由人東方朔の人気は今に至るまで一向に衰えない。トボケタ野郎を南九州ではトボサクと呼ぶ。語源はおそらく東方朔先生。小生この人を大先輩と思っている。何よりもまず「不埒」なところがよい。
この世はしょせん退屈なところ。生き方としては「韜晦」がベスト。孔子はヒマで困るならバクチでもうってろという。論語の中で唯一気の利いた台詞といえるのが、この「バクチでもうってろ」。
そもそも孔子先生、いうわりには仕事はいつも失敗だらけ、実情は大勢の生徒たちをつれて喪家の犬よろしく歩きまわっただけの生涯ではないか。立派な事はいってるがみんなソバ屋の釜の中。つまり湯(いう)ばっかり。とてもお手本にできるようなご仁ではない。バクチを勧めるならもっとマシな連中がいるぜ。本職のやくざのお兄さんたちは初手から孔子のようにえらそうなこたあいわねえよ。なにしろ世の中でいちばんえらいのは堅気の衆、つぎにえらいのがドロボー、つぎが乞食、人を脅してなんぼのやくざなんざあ一番のゲス野郎なんだと、ちゃんと身分はわきまえちょる。おっと、物書きどもはやくざ以下。どぶ板の上を這って歩くのが分相応。小生勉強して到達した結論がこれ。
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行動文化 (160)  平手打ち 

音のわりには実害のない、「平手打ち」なる殴り方がある。聞いた話だが、英国の議会では女性議員が暴言を吐いた相手(たぶん男性議員) にこの平手打ちを一発見舞ったという。女一匹。なめられてたまるか。じつにほれぼれする、颯爽たる女っぷりではないか。美人議員にきまっている。
 平手打ち。女性向きではある。昨今、戦前にくらべて女性の地位はかなり向上しているが、それでも腕力ではやはり男の敵ではない。職場によってはまだ女性にお茶くみをさせている。
戦国の武者たちは、人に飼い馴らされる番犬にではなく、人に飼われることを拒否する「狼」に親近感を覚えた。今でも日本には狼好きが少なくないが、かつて『子連れ狼』というテレビの人気番組があった。筆者も以前からときどき「白狼」を名のっている。子供の頃からのヘソマガリで、仲間に入れてもらえずいつも一人でいたが、淋しいなどということは一度もなかった。おおそうかい。仲間外し賛成。無視OK。しずかでいいや。本が読める――
 もっとも、イジメには会った。当然だろう。学校では、おまえらのようなバカどもと遊べるかというデカイツラでいたから。
 筆者の場合、イジメとは学校の帰り道で待ち伏せて、5、6人での暴行だった。それも筆者の場合、中学生になってからも小学生の、それも4・5年生にいじめられたから、女の子たちからさえバカにされた。三つ年上の従兄がみかねて「立ち向かえ」といってくれたが、さすがにいくらなんでも、自分でもこれではみっともない、立ち向かおうとは思っていた。
 帰途、連中はいつもの竹やぶのかげに待っていた。近づくと、ガキ大将格の一人が前に立って、彼等のこれがやり口だが、左側からぬっと顔を出した。こんな形になるとは思っていなかったが、左側から来たことが結果的に筆者を左半身にさせてくれた。
 おあつらえ向きの対峙。そのとき筆者は両手をだらりと下げていたが、そのままの形から右手が相手の左頬へ向かった。抜き討ちの形。パーン♪ 胸のすくような、じつにいい音がした。手ごたえなどほとんどなかった。
 じつは、筆者にとってのこれが生まれてはじめての平手打ちだった。練習など一度もしてはいない。が、戦前の軍隊の、いわゆる「ビンタ」なるものはみていた。ここで言える事は、この種の勝負には道場も稽古も無用。この小論を一度でも読めば、それで十分。とくにレディ方におすすめしたい。
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行動文化 (159)  自由ということ 

誤解されているが、「自由」とはフリーダムではない。漢字で書けば「自由意思のことだが、しかし「リバティ」と言い換えてもちょっとちがう。やはりそこには「○△からの解放」というニュアンスがただよう。
 これはどういう事なのか?
 思うに英語の場合は具体的な行動にピントを合わせるが、アジアの場合は「心情」ではなく「精神の位どり」に視点をおくということなのか。
 いい方を変えてみよう。
 自由とは「マイペース」の「ミーイズム」、つまり主体的な行動を意味する中国語。自分以外の、「神」をふくめた如何なる外的な権威にも支配されないことを、宋時代の支那では「自らに由る」、つまり「自由」と呼んだ。
 しかしキリストにも支配されないのが自由の意味だなどという意見が、すんなり西側世界に受け入れられるとは思えない。云った途端に反撃される。
因みにこれが「東」と「西」とを遮断する厚い壁なのであって、BBCの日本語部長だったT・レゲット氏ほどの知性派でさえも、なかなか「禅」に対してはピントを合わせ得なかった。

 由来、西側社会では狼を嫌悪する。それは我々からみると、ほとんど常軌を逸するほどの嫌い方である。「悪魔の使い」とまでいう。
 理由は、狼が人に有益な羊を襲うからである。
 日本人は狼を嫌わない。「子連れ狼」は人気番組だった。小生も狼を嫌わない。どころか、気が向くと筆名として「白狼」を使っている。
 日本人は天・地・人を同時に視野に入れる垂直思考。もっとも最近はかなり怪しくなっているが、それでもまだ石原前都知事のように「天罰」などという言葉を使う。「バチアタリ」などという懐かしい言葉さえ原発事故ではとび出した。これに対して西側は水平思考。すべてを人間の役に立つかどうかで判断する。垂直思考は「精神の位どり」を大切にするが、羊と狼との対比でいえば、羊が上で狼が下ということにはならない。垂直思考とは「上下」の思考のはず、羊と狼とを同列にみるのは水平思考ではないかと云われそうだが、東洋の「一視同仁」の視点からいえば、羊も狼も、また蛇も蛙もナメクジもオテントサマの下で生きている仲間。位どりの視点からいえばこうなる。
「自由」の話であった。自由とは主体的な行動のことだが、我々東側の人間にとっては、主権在民の民主思想とは狼と羊とを差別しない思想である。
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行動文化 (158)   無検証試合 

かつて審判員をおかない無検証試合があった。
 試合とはテストのことだが、自分の実力がどの程度のものかを知るために相手を択んで試してみる。だが自分で試すわけだから、他人に判定してもらうまでもなく結果はその場で出る。剣道の場合、打つのは頭ではなく肩だったが、真剣なら致命傷かどうかはお互いに自分でわかる。これがかつての試合で、わざわざ「無検証」などと呼ぶ必要もなかった。
 誰がナンバーワンかを決めるためには自己判定は公平ではないが、武道の勝負とはゲームではない。
 むろんゲームとしての勝負もあってよい。ゲームであることを忘れさえしなければよい。ゲームにも効果の判定にはエコヒイキが働くことはあるが、そのための礼なのだ。

 ゴルフで考えてみようか。
 かつては紳士のスポ―ツとして監視人は置かなかったが、これは紳士としてのプライドである。まあ、最近のスポーツには支援団体などの存在がネックにはなる。審判はやむをえなかろうが、だからといってみんながみんなセミプロになる必要がないことは、歌の上手な者がみんなプロ歌手になる必要がないことと同じである。とくに学校の場合、学力テストをふくめて武道の実力の審判は審査員ではなく、世間に出れば世間が厳しい審査をしてくれる。
 
 明治期には、ゴルフのように武道にも審判員はおかなかった。東京帝国大学予科の剣道の試合には、「みずから直きになんぞ他の判定を要せんや」と、試合者自身が審判を拒否した。それと高段位者の勝負にも審判者はおかなかった。
 これならよくわかる。高段位者の試合には「行司」という立ち合い人はおいた。試合開始は現在のような「はじめ!」ではなく、「拝見」。およそ三太刀の勝負が決したとみて、「よろしゅうございます。それまで。」で終わる。その間、判定がましいことは何も行なわなかった。
 もっとも東大予科の試合にもいつの間にか勝負判定を行なうようになって無
検証試合は時代の波にのまれていったが、ともあれ一時期はわが武道界にも無
検証試合があった事を知って、安心したと同時に一抹の寂しさを覚えた。▲▲

※新刊案内 『武士道と武道(英文)』  『予知』――いま甦る古代支那の開運の科学  『美術カレンダー』――剣者野中日文の筆のすさび
                 

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