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行動文化 (157)  武士道(2) 

人が戦うのは、基本的には自分の利益のためです。山崎闇斎の「臣道」も新渡戸武士道も主君のために私を滅することを要求しますが、しかしこれは本来の武士道ではない。
 戦国の武者たちは神佛にさえ仕えなかった。まして無条件で主君に全人格を明け渡すことなどなかった。
 むろんこれはエゴイズム。だが視点を変えればこれは精神の自律。
戦国の武者たちは既成概念には縛られなかった。いま考えてもこれは胸のすくような、完全に自立した精神貴族の姿です。「名」とか「恥」とかいうものを意識するようになったのは、もっと世の中が安定して、たとえば「滅私奉公」が登場してからの事です。新渡戸稲造の「自分の命は主君に仕えるための手段と思え」がこの「滅私」の要求ですが、ただここに明記しておくべきことがあります。

 「滅私奉公」への疑問
 昭和天皇に対する戦前の日本の将兵たちの「忠節」とは、平成の日本人が考えるような「滅私奉公」ではなかった。
 将兵たち「滅私」ではなく「私心」、つまりタテマエではなく本音で天皇の盾になろうとした。
 死に際の兵たちの「天皇陛下万歳!」という絶叫は、あれはウソ。実際には「オッカサーン!」と絶叫して死んでいったのだという意見は昔も今もあります。しかし「天皇陛下万歳!」もそれに劣らず多かったことを、私は戦場から帰って来た先輩方からきいております。じっさい昭和天皇とは日本軍の将兵たちをそんな気持ちにさせる人でした。
 「滅私」はむしろ天皇の胸中にこそあった。昭和天皇は、身を盾にして国民を護ろうとした。そのことはD・マッカーサーとの会見記録に明らかです。
 朱子学では無力な者たちへの無条件の庇護の情を「仁」と呼ぶ。仁義の仁。日本の皇室には御名にこの「仁」の一字をそえる伝統があります。
 歴代の天皇がすべて「仁」の存在だったなどと強弁するつもりはありません。むしろ昭和という時代は、わが国の天皇とは「仁」の体現者であったことを改めて思い知らされた激動の時代であったというべきでしょう。

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行動文化 (156)  武士道 

洗いざらい云ってしまえば、「武士道」などというマニュアルめいたものは本来、どこにもなかったと考えるべきでしょう。
 忠臣蔵の舞台である元禄時代の日本にはたしかにそれらしいものはあって、さまざまな場面で人を拘束していますが、しかしそれはたとえば「名誉」とか「恥」とかの世間体にすぎない。面子もこれ。「人前」とも「武士の一分」とも呼ばれた行動律(ポリシー) とは人それぞれに思い描いているものでした。同じ武士でも立場や視点によってさまざまな差異があり、「義士」たちの処遇については意見が分かれた。最終的には荻生徂徠の意見が採られていますが、その徂徠自身、「武士道」については戦国期の武士たちの行動のほかには、これといって由るべきものはなかった。それはそうでしょう。そうでないとリアリストの荻生徂徠ではない。
 武士道とはマニュアルではなく、当人なりの識見とセンスによる行動の選択だったという結論になります。そしてこの事は現代の我々にとっても同じことなのであって、あとは整合性や説得力の問題になる。比較検討の材料としては、徳間書店の『武士道と葉隠れ』(2012、5月発行) が手ごろでしょう。

 戦国武士道はエゴOK
 「武」とは戦闘準備が整っていることを示す文字。この「武」を「矛」を「止」めると解釈して戦争放棄に結びつけることが戦後流行しました。今もまだ残っていますが、矛を鎌槍の象形とするのはまだしも止は「止める」ではなく、古くは「足」の象形。つまり「武」とは槍をかついて威風堂々と歩いている姿。
 なんのために槍を担いで歩く? 
知れたこと。槍とは物干し竿ではない。人を刺す道具です。
ではなんのために人を刺す?
むろん行く手を遮るものを斃すためだよ。虎やオオカミの牙や爪にあたるのが人の場合は刀や槍、また現代の銃砲やミサイル。侵入する者や行く手を遮る者があれば斬ってすてるのが、昔も今も武者の仕事です。
 ただ、現代の戦いとは多分に知力戦、つまり外交戦です。孫子も百回戦って百回勝つよりも、戦わずに相手のシェアをまるごと戴いてしまうのが一番儲かるといっている。そりゃそうでしょうよ。戦争もつまりはソロバンなのです。アタマのいいものが勝つ。バカじゃ勝てません。
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行動文化 (155)  復古神道 

日本人の行動文化には国学、つまり賀茂真淵――本居宣長へと流れる「復古神道」の流れがある。国学、という二文字には頑迷な国家主義の匂いがあります。水戸学への連想もそれですが、しかしそれは復古神道の解釈のひとつにすぎない。「古道」の源流とは、「こころ直きときは、むつかしき教えは用なきことなり」という、「正直」だけを説くいたって屈託のないものです。それで「無思想」という批判もあるのだが、しかしこれはこれで日本人の思想なのです。
 この一派は、仲良く暮らすのに学識や主義主張が邪魔になるなら、そんなものは捨てよという。立場を超えてみんな仲良くやっていくことを邪魔する者がいたら、道理や理屈ではなく怒鳴り声と腕力で阻止せよ、ケンカの種がなかったら酒を飲んで歌でも歌い、踊りでも踊ってろ、支那の連中はえらそうに「節欲」を説くが、活発な感情表現こそが生きている証しなのだ、感情にはブレーキなどかけず、「口げんか」ならおおいにやれ、殴り合いまではOK、そのうちくたびれる、飲んで騒いでいればマシンガンだのミサイルだの毒ガスだの、大型のケンカ道具をつくることは思いつかない、と。

 復古神道は「教義」をもっていない。
 教義がない事を、たとえば司馬遼太郎氏などは冷笑的にとりあげているが、はっきりいってこれはピンボケ。「無思想性」などという云い方で自虐的に神道を取り扱うのが日本の疑似インテリたちだが、無思想じゃないよ。いまや思想の城壁を持たないこと自体が欧米へ輸出できる新しい思想なんだよ。
 人はただ正直でありさえすればよい、必要なものがみんな身に具わっているのは、たとえば眼、口、耳、鼻や手足が具わっているようなものだ、ことさらな「教義」など無用という日本神道の主張は、茫然とするほどに単純明快な、ノーベル賞ものの新しい思想なんだが、あまりに明快すぎてよけいなリクツでがんじがらめになっている頭には有難味がうすいだけのことだろう。
 
天衣無縫 本来、やまとことばとは感性用語なのである。気の遠くなるほどの年月を日本人はこれでやってきた。歌には向くが論理構築には向かない。
技術立国のいまの日本。論理はむろん必要。だが人はパンだけでは生きられない。その通り。酒もないとね。うふ。

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行動文化 (154)  青年諸君よ、破壊者であれ 

人とは原理的にも構造的にも一個の小宇宙。
 そんな事はいま小学生でも知っている。小生が掲げている「垂直思考」とは、自然科学の水平思考に対する垂直思考なのであって、かつて日本人がみんなもっていた考え方なのだが、グローバリズムとやらに蔽われていま見えなくなっている。
 だが、失ってしまったわけではない。技術立国の日本とは伝統的な職人技に支えられている国、日本人は達人の境地に入った技術者へは賛辞を惜しまない。
むろん武道もこの中へ入る。
 日本人の魂の遺伝子は「論理」ではなく「感性」。だからすぐ泣く。しかし感激感動型とは純真純情型ということでもある。自然科学には向いていないが、いまだに日本は神の国。朝日や夕日を拝み、先祖壇へは朝夕に柏手をうつ。

 人を基準にとる欧州の水平思考に対して、我々はまだ「天意」や「天命」という垂直思考の言葉をすてきれずにいる。
かつて「太陽族」で名乗りを上げた石原都知事も、今回の東北の災害では「天罰」を持ち出した。リベラル派のペンの人なのだが、たぶんほかには適当な言葉を思いつかなかったのだろう。「テッペン野郎」とも呼ばれるリベラル派で周知のように文句屋でもあるが、テッペンとは天のことのだと小生「太陽族」の一人として彼を弁護しておきたい。
 
いま思うに、青年諸君にはいつも建設的な意見ばかり云っている建設者であるよりも、いっそ破壊者であってもらいたい。
人はトシをとるにつれて考え方がずるく、汚らしくなる。政党であれ法であれ思想であれ、壊して壊せるものはいっそ壊してしてしまった方がよい。
 武士道? そんなものは時代の権力者たちがでっちあげたマニュアルでしかない。そのあたりの事は新渡戸武士道に歴然としている。彼は、自分の命とは主君の御用に立つための道具と思えと云っている。
 新渡戸武士道とは、主人大事の忠犬武士道である。下剋上の戦国時代の武者たちは、人に飼い馴らされることを拒否する狼だった。平成のいま持ち出して意味があるのは、エサで飼い馴らされ、用済みになればあっさり捨てられる忠犬武士道ではない。
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行動文化 (153)  エゴOK 

中学校の武道では「武士道」を教えるという。
たぶん新渡戸武士道でも教えるつもりだろうが、新渡戸武士道とは滅私奉公の忠犬武士道。権力者には好都合だろうが今後の日本のためにはならない。
武士道のルーツは、本音に忠実なエゴOKの戦国武士道である。
今朝のビジネス展望(NHKラジオ) でどこかの大学の先生が、最近の日中関係について「オトナ度」なるものを説いていた。日本も支那ももっとオトナに、という。わからなくはない。が、「オトナ度」だけでは……具体性がほしい。ハッキリ云ってはどうか。もっとソロバンをはじけと。
♪ ひもじさと人恋しさをくらぶれば、恥ずかしながらひもじさが先
支那では「商量」というが、交渉とは要するにかけひき、もうかる話にしか乗らないのはお互いさま。
むろんこれはエゴ。わるいか。個人も国家も本音を犠牲にした交渉など交渉ではない。交渉の生産性を考えるなら、「オトナ度」よりも「本音度」だろう。本音度とはエゴ度のことだが、「エゴOK」はなんだか感じがわるい。だから「本音」を避けて「オトナ度」となったものだろうが、タテマエ論では埒があかないのである。

武道教育の場合、エゴを教えずにいったい何を教えるのか。精神力? 努力と根性? このあたりがいつまでたってもピンボケ、つまり不正直なのである。
総論はもういい。武士道や武道を学校で教えようというのなら、エゴOKの各論部分を教えよう。考えてもみよ。武士道がいつのまにか「滅私奉公」になり、武道が「青少年の健全育成」になってしまったのは、武士道や武道では総論ばかり教えて民主主義の本音を置き去りにしてしまっているからではないのか。民主主義は武士道にはなじまない? そんなこたねえよ。武道こそが本音に忠実な民主主義教育なんだぜ。
青少年を健全に育てようというのなら、エゴにも居場所を用意しなければならない。信なくんば立たず。健全な青少年とは言葉にも行動にもウソのない青少年のはずだ。ちがうか。武士道のルーツはエゴOKの戦国武士道。武道も勝つための心得。政治もまた国家エゴ。エゴに正当な居場所を与えられるのは教育だけだが、その教育までがまたぞろ「オトナ度」などというもっともらしい言葉を持ち出して本音にフタをするのは、たいへんよくない事である。
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