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行動文化 (141)  禅 

元BBC日本語部長だったトレバー・レゲット氏は柔道家でもあった。こんなエピソードがある。講道館での試合(月並試合?)の対戦相手が小内刈りの使い手で、T氏はこれをまともに食らった。試合開始後3~4秒だったらしい。
 他流に「講道館の足」と怖れられた足技の中でもとくに「小内刈り」は軽妙な技で、体重を乗せようとする足の踵の部分を親指で軽く刈られると大男でも見事に刈り倒されて畳を背負わされる(仰向けに投げられることを柔道ではこういう)。何段のころだったのか、T氏にはこの小内への備えがなかった。 
 意気消沈して帰り仕度をしているT氏へ――たぶん館の出口のところ――寄ってきて、試合の勝者へわたされたメダルを押し付けて立ち去った人物のことをT氏は書き遺している。「突然現われる、打算的でない気前の良さ」という日本人気質への好意的な書き方。
 このT氏が禅について書いている。アメリカへ禅を紹介した鈴木大拙の著作には「坐禅」の修行法が書かれていないとある。
 
日本びいきの氏へいっちゃ悪いが、これはピンボケとしか言いようがない。
 禅とは「坐禅」ではない。無関係とは云わないが、いくら熱心に坐禅をしても、それだけでは猫の年が来ても悟りの眼は開けない。坐禅などしなくてもよいのだ。要は視点の問題。
こんな話がある。
若いまじめな修行僧がいた。いつも樹下で坐禅ばかりしている。これをみて、何を思ったか古瓦をもってきて、これみよがしに坐禅僧の前でごしごしと磨きはじめた人物がいた。
「何をなさっているのですか?」
「なあに、鏡をこしらえようと思ってな」
「瓦でも磨けば鏡になりますか?」待ってましたと
「人が坐禅をしてホトケになれるかよ」
 古い話である。T氏は同じ間違いをおかしている。
坐禅とはホトケになるための手段ではない。人が人になりきるための坐禅なのだ。おっと、人ははじめから人。坐禅無用。「人」になろうというのは斜視。
鈴木大拙は解説者。じかに禅を知りたかったら禅を言語化した『臨済録』を読んだ方がいい。「無位の真人」というのが出てくる。無刀流の開祖山岡鉄舟は剣で臨済録を講じたが、これはつまり言語の行動化。
※発刊案内 『美術カレンダー』――剣者野中日文の筆のすさび
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