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行動文化 (144) いま蘇る古代支那の「予知」の科学 

いまわが国で用いられている運勢判断法の主なものは易占(卜筮)、星占い(九星術で一名「気学」ともいう)、四柱推命(生年月日時)、姓名判断および観相の五つだが、観相以外の他の四法には、「なぜそうなるのか」という根本問題に答え得る説得力のある論拠がないので、自然科学の洗礼を受けた現代の知識層には迷信扱いをされざるを得ない立場にある。
 しかし相法だけは人間の意識と生理現象にその根拠をおく質学の上に立っているから、こういう理由でこうなるという説明がつく。ここに相法を他の判断法と根本的に異なるとする論拠がある。
 ちなみに相法では、客がどんな用件で来たのかを問う必要はない。顔を見れば判る。それを読み取れることには、人の深層心理に深くたたみこまれている地球の歴史以前の、わが銀河系星雲の発生が関与している。
 人は小宇宙。人も宇宙も意識体であり、同時に物質でもある。問うことなく用件を見抜くことができるのは「気色」と呼ばれるものが相手の顔へ現われているからだが、しかしこれは「霊視」であって肉眼でみるのではない。
物心一如 (意識=物質、物質=意識)
相道では、人間の意識や生理作用を物質(電磁力)の活動とみる。
意識作用だけでなく生理作用も電磁力の作用とみる視点は唯物弁証法の視点以外の何物でもないが、相(仙)道の「物心一如」は唯心論と唯物論の二つの立場を止揚した第三の生命体の構造論である。仏教とは「空」すなわち「ゼロ」の哲学だが、元来このゼロには二つの立場がある。端折ったいい方をすれば、仏教の空観とは一切の存在を意識による解釈にすぎないとする唯心論の立場、これに対して自然科学に代表されるすべてを物理現象とする立場が周知のように唯物弁証法。唯心論も唯物論もまちがいではないが、いずれも一面観のレベルを出ない。唯物論に基づく現代の自然科学が、その研究の方向を物質面へのみ向けて一切を単なる電磁の働きとして生命力の探求を怠っている現状では、科学文明は便利ではあっても目先の利便性のために人類を無間地獄へ追いやるだけに終わるだろう。生命力は物質を離れては存在しない。また物理とは単に物質固有の性能にとどまるものではなく、そのまま宇宙物理に直結する電磁波の機能であって、しかもこの機能にはある種の意識的な活動が予想される。
 現代の科学者たちが唯物弁証法による電磁偏重の姿勢から前進して、電磁力=意識力という事実を素粒子の中に発見できたら「物心一如」の哲理が自然科学によって究明されたことになる。世界の宗教界はその土台を根底から揺さぶられ、本当の革命がおきて新しい時代の曙光の前に群小宗教は自然に淘汰される。※近刊案内 『予知』(入門篇)  ヘッドライト大阪(06・6609・9750)
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行動文化 (143) 相道 

『武道の礼儀作法』と『武士道と武道』の英語版の執筆にめどがつき、書斎を整理していて玄通子伝の『相道』関連の資料が出てきた。
 関東にいたころ、本場の支那で相道を学んだ人物五千言坊玄通子に出合った。しかしはっきりいって小生の場合、当時の師事の目的は人相ではなく、神仙道の中でも「神游」や「飛翔」の方だった。関東にいた青年時代は酔漢たちが行き交う街角の人相見たちの姿への連想があって、武道はともあれ相術に対しては「わが道ではない」とすこし距離を置いていた。
 人相見たちの旗印である「除災招福」――いかにも形而下の――精神貴族たちの蔑視を招きそうな現金な目的だが、しかしそれは上っ面の印象にすぎない。
 人の身心とは内なる宇宙。相士とは内なる宇宙の飛行士。「神游」も「飛翔」もこの中へ入るのである。「気色」――肉眼では見えない、予知のための判断材料――が見えなくては「神游」も「飛翔」も無理。今よく判る。
 相術の「除災招福」とは、無時空の世界での人生軌道の修正作業。形而上も形而下もない。人相見が賤業かどうかは相術の本質とは無関係。

 軍神孫子いわく、彼を知り我を知れば百戦殆うからず、人生がすべて戦いであるかどうかはともあれ、相術の実用性とは彼を知り我を知って無用のゴタゴタを起こさずにいられることである。
 医療に関して言えば、視野の広さにおいても、また深さにおいても、相術とはセリエ教授のストレス学説をはるかにしのぐ、忘れられた古代病理学。
 「予知」についていえば、相術とは量子論と同次元の「時空」の否定。アレキシスカレルは『人、この未知なるもの』でノーベル賞を受けたが、人とは今もなお未知なる小宇宙。認識論に関しては、大脳生理学はまだみるべき成果を上げ得ていない。
 古代支那の麻衣道人嫡伝の「除災招福」の相術とは、いまや人類を救済する貴重な古代支那の開運の科学である。文献としても死蔵することは許されない。散逸を避けるために若干の解説を加え、師伝として一冊にまとめて公開する。
 骨相だけなら、基本原理さえ頭に入れておけば誰にでも活用できる。戦前の徴兵検査では骨相の簡便性が役に立った。気色相法となると簡単にはいかないが、しかし本気で取り組めば開眼の日もあろう。霊眼の開き方については入門篇でなく本篇の巻末に修行法「気色をみるために」をそえておいた。

※近刊案内 『予知』(入門篇) ヘッドライト大阪 (06・6609・9750)
     『美術カレンダー』(部数限定) 剣者野中日文の筆のすさび (同上)

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行動文化 (142) 禅(2) 

人はみなゲイになるように努力すべきである、といったフランスのフーコーが禅に接触するために日本へやってきたことがある。鉄舟会の大森曹玄に会って、自分の見解を禅の立場からはどう思うかと大森にたずねた。それは禅に近似したものであると応じたと大森からきいた。
フーコーについては新聞などで予備知識はあった。ゲイ論はともあれ、彼の「権力は上からではなく下から来る」という意見は孟子の東洋型民主主義とよく重なる。「フランスという国は売れるものなら何でも輸出しようとします。たとえ毒でもね」とその記事の中で彼は云っていた。
自分の言葉が一種の毒であることを彼は知っていた。禅に似たようなものだぐらいの事は見当がついていたはずである。
フーコーとは鬼面人をおどすような事をいう男。誰がフーコーに大森に会えと勧めたのかは知らないが、大森を勧めたことが気に入らなかった禅学者が知人にいる。大森なんかダメだというわけだが、彼がどうして大森を悪しざまにいうのかには理由がある。
彼、大森に殴られたことがある。理由については云うまでもなかろう。著作は多い男、文献学者である。50冊書いたと云っていたから、実名を出せば彼が大森に殴られたことを知っても驚く者は少ないのではないか。

 ついでにもう一つ。沢木興道(曹洞宗)の門人に弟士丸泰仙という禅者がいる。フランスに禅を紹介した人物。ある会合で欧州の禅事情として弟士丸氏を持ち出した者がいた。するとさきほどの禅学者が、「フランスの上流婦人にすり寄って自分を売り込んだ土方人足あがりのニセ坊主。あんなものを禅だと思ってもらっては困る」とこき下ろした。なにが気に入らなかったのか、口角泡を飛ばして非難した。
 彼、人をこきおろすのに「土方人足」という云い方をするが、禅の世界では六祖の慧能の出自は下働きの下男である。土方人足が禅を学んではいけないのなら農夫が禅を学ぶのもいけないことになってしまう。彼、由緒ありげな姓名を名乗っているが、生れは寒村の土百姓。むろん土百姓でかまわないのだが、文献学者であるにもせよ少なくとも禅を学ぶのであれば、氏素性のことを持ち出すのはみっともなくはないか。

※発刊案内 『美術カレンダー』(部数限定) ――剣者野中日文の筆のすさび
      『予知』――いま甦る古代支那の開運の科学
                   へッドライト (06,6609,9750)

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行動文化 (141)  禅 

元BBC日本語部長だったトレバー・レゲット氏は柔道家でもあった。こんなエピソードがある。講道館での試合(月並試合?)の対戦相手が小内刈りの使い手で、T氏はこれをまともに食らった。試合開始後3~4秒だったらしい。
 他流に「講道館の足」と怖れられた足技の中でもとくに「小内刈り」は軽妙な技で、体重を乗せようとする足の踵の部分を親指で軽く刈られると大男でも見事に刈り倒されて畳を背負わされる(仰向けに投げられることを柔道ではこういう)。何段のころだったのか、T氏にはこの小内への備えがなかった。 
 意気消沈して帰り仕度をしているT氏へ――たぶん館の出口のところ――寄ってきて、試合の勝者へわたされたメダルを押し付けて立ち去った人物のことをT氏は書き遺している。「突然現われる、打算的でない気前の良さ」という日本人気質への好意的な書き方。
 このT氏が禅について書いている。アメリカへ禅を紹介した鈴木大拙の著作には「坐禅」の修行法が書かれていないとある。
 
日本びいきの氏へいっちゃ悪いが、これはピンボケとしか言いようがない。
 禅とは「坐禅」ではない。無関係とは云わないが、いくら熱心に坐禅をしても、それだけでは猫の年が来ても悟りの眼は開けない。坐禅などしなくてもよいのだ。要は視点の問題。
こんな話がある。
若いまじめな修行僧がいた。いつも樹下で坐禅ばかりしている。これをみて、何を思ったか古瓦をもってきて、これみよがしに坐禅僧の前でごしごしと磨きはじめた人物がいた。
「何をなさっているのですか?」
「なあに、鏡をこしらえようと思ってな」
「瓦でも磨けば鏡になりますか?」待ってましたと
「人が坐禅をしてホトケになれるかよ」
 古い話である。T氏は同じ間違いをおかしている。
坐禅とはホトケになるための手段ではない。人が人になりきるための坐禅なのだ。おっと、人ははじめから人。坐禅無用。「人」になろうというのは斜視。
鈴木大拙は解説者。じかに禅を知りたかったら禅を言語化した『臨済録』を読んだ方がいい。「無位の真人」というのが出てくる。無刀流の開祖山岡鉄舟は剣で臨済録を講じたが、これはつまり言語の行動化。
※発刊案内 『美術カレンダー』――剣者野中日文の筆のすさび
                    ヘッドライト(06・6609・9750)

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行動文化 (140) 天罰 

人とは原理的にも構造的にも一個の小宇宙。人の身心には大銀河系の歴史が刻みつけられている事はすでにのべた。
 人とは霊である。肉体ではない。昨今の日本人はかつての日本人がみんな持っていた天・地・人という垂直方向の思考法や感性を忘れかけているのではないか?
 だが技術者たちの中にはまだ辛うじて残っている。「技神に入る」といって、日本人は達人のレベルに達した技術者への賛辞を惜しまない。武道もこの中へ入る。
 日本人の魂の遺伝子は「論理」ではなく「感覚」。だからすぐ泣く。だが感激感動型とは純真純情ということでもある。自然科学や戦争には向かないが、いまだに日本は神の国。朝陽や夕陽を拝み、ご先祖様には柏手を打ち、到来物はまず神前や仏前に供える。原発事故でも「天罰」とか「バチアタリ」などというなつかしい言葉が飛び出した。

 「人」を基準にとる欧州の水平思考に対して、日本人はまだ「天意」という垂直思考の言葉を捨て切れずにいる。かつて「太陽族」と呼ばれた今の石原都知事も今回の東北の災害では「天罰」を持ちだした。リベラル派のペンの人なんだが、たぶんほかに適当な言葉を思いつかなかったものだろう。「テッペン野郎」とも呼ばれる都知事だが、テッペンとは「天」のことなのだと小生、「太陽族」の一人として彼を弁護しておきたい。
 彼が『太陽の季節』を発表したころ、筆者は鎌倉の円覚寺(続灯庵)にいた。誰だったか――名を忘れたが、当時の作家の一人が、日本人の良俗を破壊すると騒がれていた『太陽の季節』の内容を、「あれはいいよ。はっきりした主張をもってる」と言っていた。もっともあのころの小生は武道三昧で湘南海岸のヨット遊びなどには無縁の日常だったが――いま思うに、青年諸君には破壊者であってもらいたい。
 人は年をとるにつれて考える事がずるく、汚らしくなる。政党であれ法規であれ思想であれ、壊して壊せるようなものはいっそなくしてしまったほうがよい。そうすれば本物だけがのこる。教育界が性懲りもなく復活させようとしている忠犬武士道も無用。負ける理由をなくして勝てる道理だけを追究する「武道」があれば十分。
※近刊予告 『武士道と武道(英文)』  
ヘッドライト大阪(06・6609・9750)

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