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行動文化 (135) 予知 

話題がとぶが、眼を回さないでもらいたい。人相の話である。現在わが国で用いられている運勢判断法の主なものは易占(卜筮)、星占、四柱推命(生年月日時による方法)、それに姓名判断、観相の五つだが、観相を除く四つは「なぜそうなるのか?」という根本問題に答え得る科学的論拠をもたないので、気の毒だが自然科学の洗礼を受けた知識層には迷信扱いされざるを得ない。
 しかし観相術だけは人間の意識と生理現象に根拠を置く質学の上に立っているから、「こういう理由でこうなる」という説明がつく。
 ちなみに人相見は、客が何の用で来訪したかは顔をみれば判る。相手に用件を問う必要はない。みんな顔に描いてある。
 それを読み解く事ができる理由には、人という生き物の深層心理に深くたたみこまれている地球の歴史以前の、わが銀河系星雲の発生が関与している。
 人は小宇宙。相士の眼は肉眼では見えない「ことのなりゆき」、たとえば明後日の遭難とか朗報なども簡単に見抜く。見る気になれば資金繰りの行き詰まりや倒産なども事前にわかる。専門語では「気色」とか「神動線」と呼ぶが、これらはすべて電磁波の機能であって意識即物質、物質即意識という原理にしたがって発生し、かつ動いている。
 意識も生理も電磁力の作用とみる視点は一見したところ唯物弁証法以外の何物でもないが、相道の一切を電磁波の作用する視点とは、唯心論と唯物論との二つの立場を止揚した第三の生命体の構造論である。では我々の生涯を支配している電磁力は、具体的には人の相貌のどこへどんなふうに現われるのか? 
 明日のことをいうと鬼が笑うという。一人前の相士とはその、明日のことをいう者を笑っている鬼。明日どころか三日、あるいは五日後の出来事をも簡単に見抜く。たとえば明後日の遭難(トラック事故)は、生命の危機として鼻頭から鼻筋を上へ向かう赤い筋として現われ、具体的な遭難の種類はコメカミの部分に、それが大型トラックの衝突事故であれは横転した大型トラックの姿が現われるが、面白いのは本人が余儀ない用件や相士の助言などでそのトラックの運転予定を中止すれば、ほとんどその瞬間に鼻頭の赤い筋も、またコメカミの横転した大型トラックの姿も消える。
 では、なぜその種の遭難事故が鼻へ現われるのか? 簡単にいうと、鼻とは睡眠中も休まず活動している呼吸中枢である延髄の外港であり、自我意識の中心。吉凶いずれにせよ近未来に遭遇する出来事はすべて相貌に現われるが、とりわけ生命の危機は自我意識の中心である「鼻」へ現われるのである。
※近刊予告 『予知』――いま甦る開運の科学 (予約受付中)
                発行 ヘッドライト大阪 (06・6609・9750)
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行動文化 (134) 「やまとだましい」の誤解 

「やまとだましい」とは「やまとごころ」。これは武士道とは無関係のもの。
語源は、本居宣長の「敷島のやまとごころを人問わば、朝日に匂うやまざくら花」。パッと咲いてパッと散るいさぎよさでも心意気でもない。わずかな風にもおびえてハラハラと散り騒ぐような、鋭敏で繊細可憐な少女の心にも似た、ものに感じやすい心。
 これを武士道に結びつけたのは、おそらく刑死直前の吉田松蔭のつぎの歌
♪身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも、とどめおかましやまとだましい
と、もうひとつの、
♪かくすればかくなるものと知りがら、やむにやまれぬやまとだましい
 これは渡航に失敗して捕えられ、東京の赤穂義士の墓前を通過するとき義士に手向けたとされる歌。
以上の二首だろう。これらの歌は損得とは無関係の、人としての心情を詠んだ歌。これなら太平洋戦には結びつく。「やまとだましい」が武士道に結びついたのはこういう事だろう。
だがこの二首、吉田松蔭の心情としては解るけれども、どうも幼い。「かくすればかくなるものと知りながら」というが、こうすればこうなると結果がみえているのなら、しかもそれが徒労に終わるとわかっているのであれば、なぜ思いとどまらなかったのか? 赤穂義士のことではない。松蔭自身のことである。
二首のうちの「武蔵の野辺に朽ちぬとも」の方は、まあ滅私奉公の歌ではあるだろうが、男とは「力」の運用者。兵法の視点からみても松蔭君の「かくなるものとしりながら」は戴けない。
武士道とはもののふの道である。本質は「力」。別名を「おとこみち」と呼ぶ。可憐な少女たちの心にも似た「やまとごころ」を護るための武士道なのである。「かくなるもの」と知りながら失敗してしまったのでは、さまにならん。「やまとごころ」を護るどころか松蔭自身が可憐な少女になってしまう。
「やまとだましい」では戦えないのだ。日本人の行動文化が生んだ可憐な一輪の花「やまとだましい」を護るための技術が「戦略」であり「武道」でなければならぬ。そのための「滅私奉公」なら、文字通りの「滅私」でも立派に死に花は咲くが、滅私の対象を国とするか人とするかは人により場合によって違う。違ってかまわないのだが「愛国心」についていえば、まさに滅びようとしている国を為政者たちに任せておけない、国を思う心情が愛国心。そしてこの種の愛国心をもっているのが本物の志士。
※発刊案内 『美術カレンダー(限定版)』剣者野中日文の筆のすさび(書画)
               発行 ヘッドライト大阪(06・6609・9750)

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行動文化 (133) エゴOK 

「武士道」から首輪をはずそう
 武士道のルーツはエゴOKの戦国武士道である。
 戦国の武者たちは、人に飼い馴らされた番犬にではなく、人に飼われることを拒否する「狼」に親近感を覚えた。今でも日本には狼好きが少なくない。かつて「子連れ狼」というテレビの人気ドラマがあったが、筆者も以前から時々「白狼」を名乗っている。
筆者、子供のころからのヘソマガリで仲間に入れてもらえずいつも一人でいた。無視OK。おお仲間外し賛成。望むところだ。静かでいいや。本が読める。さびしいと思ったことなど今に至るまで一度もない。
 昭和は戦争の時代でもあったが、高度成長のあとは全国民中流意識の昭和元禄。いまは弱肉強食の平成戦国。いま若い諸君に求められるのは、新渡戸武士道が説く雇用主への「忠誠心」や「克己心」ではない。
 つまり「他人の道具」や「兵士」になることではない。自分の本音に正直な、それでいて巧妙、かつしたたかな「知」の戦力化。
 
 原発事故の現場の放射能の中で果敢に働いてくれた男たちがいる。これを「現代の武士道」と持ち上げる声がある。そのために山本常朝の葉隠武士道や山崎闇斎の臣道を持ち出す者たちもいる。
 冗談ではない。こんな場面で臆せずに働く者たちがいれば事故の責任者連中は好都合にちがいない。いずれ賞状でも与えようという事だろうが、武士道の源流である戦国武士道とは、主君の覚えをよくするための「滅私奉公」ではなかった。では何のために働いたのか? 知れたこと。天下国家ではない。自分や仲間たちのためだった。
 くりかえすが、武士道とは体制や権力者のための心得ではない。つまり新渡戸稲造のいう「自分の命とは主君に仕えるための道具」ではない。なに? それはエゴイズム? むろんのことだ。エゴイズムでわるいか。
 では訊きたい。武道とはエゴの振る舞いではないのか?
武道と武士道とは本来べつのものではない。この二つを本音に正直で闊達な「戦い方の心得」へもどそう。
 武士道を卑屈な忠犬武士道から解き放ち、「武士道」や「士道」をやめて「武道」に一本化しよう。その時期がきた。

※近刊予告 『武士道と武道(英文)』 ヘッドライト大阪(06・6609・9750)

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行動文化 (132) 新渡戸武士道 

武士道といえば新渡戸武士道がよく知られているが、山本常朝の葉隠武士道、山崎闇斎の臣道。山鹿素行の士道をふくめて、これらはみな体制に奉仕するための「滅私奉公」つまり兵卒の心得である。個人の自律ではない。とくに新渡戸稲造は、岩手盛岡藩の武士の家に生まれ育った人ではあるがクリスチャンで、国連事務次長(1920)や太平洋問題調査会長(1929)をつとめたデスクワークの現代人である。
新渡戸武士道はデスクワークで観念化された武士道。アメリカではよく読まれたようだが、日本の研究者たちの間ではいま、ほとんど評価されていない。
 思想は現場を離れるとお話になってしまう。
武士道とはマニュアルではない。不埒な戦闘者のポリシーである。汗と血の匂いのする、本音に忠実で闊達な戦闘者たちの行動原則を求めるには戦国期まで遡ってみる必要がある。

新渡戸武士道でまず気になるのが「自分の命は主君に仕えるための手段と考えよ」という言葉。この部分は山崎闇斎の臣道の場合もまったく同じだが、ちょっと待ってもらいたい。主君と家臣との間柄とは本来そんな一方的なものではない。状況の設定もなくそう簡単に言い切ってよいのか? これでは主君への無条件の「献身」の要求である。
合戦の場合はたしかにそれが心得だったと思う。いざという場面では身を挺して主君を護ろうともしただろうが、しかしだからといってそれをこんな形で強要されると、不埒な「自律」の心得あるいは不文律としての日本の武士道が、下郎相手の有無を言わせない「規律」や「キマリ」の押しつけになってしまう。
新渡戸自身は伝記を読むと人格の侵害に対しては並はずれたシャープな感性を持つ人のようだが、武士に対するこの「無条件の献身」の要求には一貫性を欠くものを覚える。
 
 たとえどんな時代になろうと、これだけは忘れてもらいたくない。「キマリ」で縛ろうとするのは武士に対する遇し方ではない。武士から誇りと意地を奪ったら、あとに何が残るのか。
 新渡戸武士道とは、いってみれば「主人いのち」の忠犬武士道。筆者以外の日本人がどう思うかはともあれ、2012年の世界に持ち出して意味があるのは忠犬武士道ではなく、「自恃」を背骨とする不埒な狼武士道だろう。

※近刊予定 『武士道と武道(英文)』  ヘッドライト大阪(06・6609・9750)

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