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行動文化 (131) グルメ 

乾パンは、明治時代の大日本帝国陸軍が欧米の軍用ビスケットを日本式に改良して作った携帯口糧である。正式には「重焼麺麭(ジュウショウメンポウ)と呼ばれた。
小生いま、主としてこの「重焼麺麭」と野草と水で飢えをしのいでいる。
これには理由がある。
無用のものを口にするのはみっともないからである。
 小生、ペンはとるがエンターティナーではない。書きたくないことは書かない。小生の仕事は現代への意見の発信である。乾パンは小麦の全粒粉を用いている一種の完全食。エネルギー源としては乾パンと水があれば必要にして十分。仕事を抱えている者は、食事としてはこれだけでよい。
 特別なことをしているつもりはない。食いたいのを我慢しているわけでもない。乾パンはうまいのである。水もうまい。いざとなれば野草は省略してもよろしい。こうしていると、頭が冴えてくる。来客へも乾パン? まさか。本来、レストランとか料亭は来客用のものなのだ。

 以前、野草だけで生きているという人がいた。メヒシバ(イネ科の一年草)の煮汁で生きているという意見に何かの雑誌で出合った。いったいどういう人なのか――おそらく旧日本陸軍の軍人だったのではないか。メヒシバの煮汁に含まれている成分の分析表が添えられていた。こうでなけりゃと思った。
 畜産界の口蹄疫騒ぎで痛感したが、我々には動物蛋白質は無用。齒をみれば判る。牛馬と同じ構造をもっている。草だけで生きられぬはずがないのだ。
 
泰山鴻毛 もとより人生無目的。という事はお互い好きなように生きてよいわけだが、論語はする事がなかったらバクチでもうってろという。遊んでろということだろうが、人の命はときに泰山よりも重く、また鴻毛よりも軽い。愛は惜しみなく与え、かつ奪うのだ。お互い為すべき仕事を終えたら泣いたり笑ったりの、片々たる一喜一憂へもどるのではないか? むろん美食へも。
だが小生にはまだ仕事が残っている。欧米への英文での武士道論と武道論の刊行だが、なんとか書き上げた。いま翻訳の仕上がりを待っている。あとはする事がない――はずだが、さて仕事は終わってみなければわからん。

※発刊案内 『美術カレンダー(限定版)』――剣者野中日文の筆のすさび(書画)
               発行 ヘッドライト大阪(06・6609・9750)
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行動文化 (130) 禅とは 

トレバー・レゲット氏(BBC日本語部長)の不満に答える
『紳士道と武士道』の中で氏は、鈴木大拙の禅の解き方には坐禅が書かれていないと指摘されている。
坐禅は「摂心」ともいって心の散乱を防ぐ手法の一つではあるが、しかし禅の体得のためには必須の修行法ではない。むしろ今は言語化して禅に接近する方がロスが少ない。まあ、その鈴木大拙の禅の言語化に不納得ということなんだろうが。
禅とは主体性の回復である。だがこの「主体性の回復」とは一般論としての人間の主体性の回復ではないのだ。客観論をいってもはじまらない。それこそが最も禅に遠い態度だ。
だからこその「言語化」なのである。むろん言語化とは客観論ではあるが、たとえ観念論であったとしても的を絞りこむ事はできる。
たとえは、「私」とは誰か。野中日文。それは「名」、つまり観念にすぎない。「野中日文」と答えているのは誰か?
ここでハタと行き詰まる。行き詰まるのは、「行き詰まった」とわかるわけだから、少なくともバカではない。見込みはある。

「主体性」の追究の徹底度が問題になる。追究が徹底すれば、叩けよ、さらば開かれん、やがて「主体性」に意識のピントが合う日が来る。しかしこれは坐禅をしたからといって到達できる境地ではない。小生自身けっして坐禅はマネごとしかしてはいない。居眠りの時間のほうが多かったが、振り返ってみると坐禅は主体性の確立には無効。小生の場合、なんとか目が開けて「自分」に出会えたのは、坐禅によってではなく、やはり『臨済録』や『無門関』などの文字を相手の知的格闘によってである。
一時期「自分捜し」が流行ったが、さて何人が「自分」を捜し当てたか?
「自分」とはその「見失ってしまった自分」なるものを捜し歩いている本人なのだから、これは自分がつくっている影を追いかけているのと同じ事なのである。追うことをやめて立ち止まりさえすればよいのだ。
自分とはかくかくしかじか、と思っているのはイマジネーションの働きだが、問題の「自分」とはその「イマジネーション」なのだから、これは客観的には自分で自分を捜しているという、まあジョークとしてなら使える滑稽な眺めである。
※書画カレンダー 「剣者野中日文の筆のすさび」(2013年 部数限定)
              ヘッドライト大阪 (06・6609・9750)

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行動文化 (129) 自由とは「身勝手」のこと 

誤解されているが、「自由」とはフリーダムではない。漢字で書けば「自由意思」のことだが、リバティといってもちょっとちがう。やはりそこには○△からの解放というニュアンスが残る。これはどういう事なのか?
思うに英語の場合は具体的な行動にピントを合わせるが、アジアの場合は「心情」に注意が向かうということなのか。
言い方を変えてみよう。自由とはマイペースのミーイズム、つまり主体的な行動を意味する中国語です。自分以外の、「神」をふくめたいかなる外的な権威にも支配されない事を宋時代の中国では、自らに由る、つまり「自由」と呼んだ。しかし「キリストにも支配されない自由」などというと欧米人にはとたんに反撃される。思うにこれは東洋の垂直思考と西洋の水平思考の衝突(バッティング)ではないか?

しかし自由はよいが自分勝手はよくない? 
そんなこたないぜ。自由とは自分勝手のことだよ。問題はその「自分勝手」を使いこなせるかどうかだ。
人をふくめて生き物はすべて利で動く。「自由」についても武道の世界で敵を相手に使いこなせず、戦場で使えないなら無意味。太平洋作戦では米英は自由に日本軍を自由に支配してハワイのパールハーバーに誘い出したが、日本はルーズベルトやチャーチルの都合や事情に支配されて一片のハルノ―トで操られてしまった。オトナとコドモのケンカだった。

「自由」については鎌倉円覚寺の夏季講座で鈴木大拙の「自由」の講演を聴いた。当時小生はまだ19歳。敗戦直後で、アメリカから持ち込まれた「自由」と「平等」にはまだなじめなかった。この時の鈴木大拙の講話は、「自由」をみんな何々からの自由というふうに受け取っているようだが、そんな自由は監獄の檻の中に閉じ込められている囚人の自由でしかない、自由とは主体的な行動のことだという主張が耳に新鮮だった。
禅の視点からいえば、「自由」とは徹底的に主体的な行動のことをさす。しかしこの事に気づくのはそう簡単ではない。主体的に動けるためには「自分」を理解していなければならないが、この解り方の徹底度が問題なのである。たとえばこの自分を「行為者」とか「主体性」とか説明したとしよう。ではその説明しているのはいったい誰なのか?
※書画カレンダー 「剣者野中日文の筆のすさび」」 (2013年 部数限定)
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行動文化 (128) 昭和元禄 平成戦国 

武士道とは勝つ事と見つけたり
政治が力を失って市街にはホームレスがあふれ、学校は教育手法を見失い、親たちは「しつけ」の能力を失っている。
知育偏重というが、昨今の日本の学校に知育はない。あるのは受験競争とイジメ。中学校では武道が必修科目になったが、教師たちには武道とスポーツとの区別さえつけられない。
つまり、敗戦から立ち直って経済成長を遂げた昭和を元禄時代とすれば、平成の日本とは恥も名誉もどこ吹く風、企業も個人も実力本位の戦国時代だろう。
そのつもりでお互い力を養わなければならない。個人の力がすべてだった戦国時代の武士道に学ぼう。

「飼い犬」から「狼」へ
自分が周囲からどう思われているのかが気になって仕方がないのは「腰ぬけ」。どう思われているのかが判らんのはバカ。他人が自分(こちら)を何と言おうと、それは他人の意見。
他人とはおれではない。他人は他人。自分は自分。ゴーイングマイウェイ。何とでも言わせておけ。痛くも痒くもない。世間や他人の評価基準ではなく、自分自身の価値基準で生きよう。
「プライド」も「恥」も必要。だが何を「誇り」とし何を「恥」とするのか。
名? 世間体? エゴイストと言われたくない? 後ろ指を指されたくない? 輝きたい? フットライトを浴びたい? 喝采? なるほど、さすがと言われたい? 小生、サムライという言葉が大嫌いである。侍とは主君のおそばへ侍(サムラ)う者。つまり番犬。すなわち兵隊さん。危険を顧みず放射能の中へとびこむ便利で調法な番犬。
小生は誰の番犬でもない。人に飼い馴らされる事をきらう狼である。番犬になるために剣を学んだのでも番犬道を教えるために道場をもっているのでもない。賞状や勲章や金メダルは、出す側になら回ってもよいが、もらう側には立たない。他人にホメてもらわなくても間に合っている。
「昭和元禄」も「平成戦国」もない。「時代」や「みんな」に合わせるのではなく、自分の中に時代や世界に支配されない自分本位の、「不埒」で「身勝手」な基準をつくろう。今日以後、「武士道」も「士道」もすべて「武道」に吸収する。諸兄姉、首輪をはずして狼にもどろう。
※書画カレンダー 「剣者野中日文の筆のすさび」 (2013年 部数限定)
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