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行動文化 (122) 

名無しの権兵衛殿から抗議がきた。どうやら筆者の武士道論――というよりも現代武道への直言が癇に障ったようだが、小生、「サムライ」という言葉にはいささか抵抗感がある。新渡戸武士道は「サムライの行動律」としてアメリカに知られたのだが、サムライとは「侍」。つまり権力者に侍(はべ)る使われ者。
気になるので言っておくが、これはサラリーマン諸氏への蔑視ではない。男たちが何をして女房子供を養っているかについては、それぞれに余儀ない事情というものがある。その事はよーく解っている。
 筆者への抗議は、昨今の武道界への直言に武道人蔑視の響きがあるというのが趣旨。たしかに小生、その種の発言はする。「脳ミソまで筋肉化した、トレーナーを着たゴリラども」などもこれだが、筆者は文字芸者ではない。気に入ろうと入るまいと、思った事はマッスグ書く。筆者は権力者の飼い犬ではない。人に飼われることを嫌う狼である。提灯記事は書かない。武士道に結びつける気はないが、これはペンを持つ者の矜持であることを解ってもらいたい。
 結論をいえば、いまカビ臭い「武士道」は無用。敗れる理由をそぎ落として勝てる道理を追究する「武道」があればよい。武士道との兼ね合いについては、狭義の「武士」はもういない。だが「士」はいる。むろん武道界にもいる。しかしこれは「侍」ではない。筆者は武士道の研究者ではあるが、現代の武道人のすべてを武士とは思っていないし、武士でなければならんとも思わない。
筆者が思い描いている「士」とは権力者の飼い犬ではなく、無辜(社会的弱者、よるべなき者、たとえば子供たち)を無条件に護ろうとする者たち。競技化した武道にもスポーツとしての意義はあるだろうが、無辜への配慮を忘れた武道人とは、もはや「士」でさえない。こんな連中へ払う敬意は小生、持ち合わせない。いま出版準備中の『武士道と武道』(英文)には、武士道なるものへの筆者なりの疑念をストレートに叩きつけた。むろん新渡戸武士道も、山崎闇斎の「臣道」も、「武士道とは死ぬ事とみつけたり」の葉隠武士道も、容赦なく批判した。反論があるならどうぞ。受けて立つ。君子の争いならば望むところだ。 
徳間書店の新刊書『武士道と葉隠』――3・11に見た日本人の武士道――は葉隠を武士道の代表とみているようだが、原発事故を例にとれば、あのような場面で身を挺して動いてくれる男たちがいれば政府も東電も好都合にはちがいない。だが徳間武士道には、権力者たちへの忠節はや滅私奉公はあっても批判はみられない。武道人には犬ではなく、飼い馴らすことのできない狼であってもらいたい。
※ 書画カレンダー「剣者野中日文の筆のすさび」(2013年 部数限定)
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行動文化 (121) 時間ドロボー 

オトナのふるまい
「おとな」の心得に江戸前と京風がある。江戸前は簡潔。京風もムダを省くのは同じだが、しかし京風の省略は一見したところ省略を感じさせない。どこが違うのか?
 江戸はかつて職人たちの町。江戸弁(とくに下町)は簡潔。省略も職人風に省くが、京は公家社会。客席での応対に省略はない。京の料亭では事前に客種をえらぶ。一見(いちげん)さんお断りとはこれである。
 一見さんとは常連ではない客という意味だが、しかし常連もはじめは一見さんのはず。そこの所はどうなっているのか?
 聞いてみれば、なるほどと思う。常連の誰かに連れて行ってもらえば客として遇してくれる。京の――京に限ったことではないが料亭やクラブ(倶楽部)は雰囲気が商品。それで倶(とも)に楽(たのし)む部(部屋)と書く。
 スピード時代である。お互い、なるべくムダは省きたい。
 都市の仕事は昔も今も回転の早さが命。仕事を効率よく稼働させるためには省ける手間は極限まで省く。

 よのなかに人のこぬこそさびしけれ とはいうものの お前ではなし
    よのなかに人のくるこそうるさけれ とはいうものの お前ではなし
                          内田百鬼園
 百鬼園先生宅の門には、この二首が門人向けに掲げられていたという。
 地方の時間は今もまだゆっくりと流れる。山深うして太古に似たり。日永うして小児のごとし。つきあい方も寸暇を惜しむ接触ではない。この感覚が共同作業への「顔出し」という形になる。お義理の参加だから、冬であれば焚火を囲んで話ばかりしている。無論それが許されているわけではない。「顔さえ出せばいいと思って――」というかげ口は聞くが鈍感力の馬耳東風。
 地方人とは本来、実直で義理がたい人たちである。実直とは、たとえば謝礼作法についていえば自分の納得のための形式的な謝礼ではなく、相手本位の実質本位。相手の趣味や状況を考えない謝礼は謝礼にならない。
 日本人は太平洋戦の敗戦を境に、伝統的な行動文化を意識的に放棄して、ハッキリとルーズに、かつ身勝手になってしまった。自由平等がもたらした一億総幼児化。小生はまだ戦前の大人たちの儀礼作法を覚えている。お礼言上では、部屋には上がらずに玄関先ですませた。上がりこむと「時間ドロボー」と呼ばれた。
※ 書画カレンダー「剣者野中日文の筆のすさび」(2013年度 部数限定)  
            ヘッドライト大阪 (06・6609・9750) 
 『予知』――いま甦る古代支那の開運の科学
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行動文化(120) 無愛想 

久しぶりにラジオで浅川マキを聴いた。浅川マキ、といっても団塊の世代以後
には解らんだろうが、教育界を揺さぶった全共闘運動後の学生運動の自滅と挫折感に伴う「シラケ」。ここへ黒づくめの、無愛想な浅川マキが登場した。そしてウケた。まあ、筆者の好みの歌い方。
つれてきたのは「天井桟敷」の寺山修二。「マッチ擦るつかの間の海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや」の寺山だが、新宿の「さそり座」の一人舞台にマキを使い、注目を集めた。
筆者あんまり寺山型の自己主張も感傷も好きではないが、神経のごつい下品な奴はもっとイヤ。とくにイヤなのが自信満々の奴。だから浅川マキの、ちょっと投げやりな歌声はイヤではない。何よりもまず作らない正直な、聴き手に媚びない発声がいい。無責任に聴いていられる。
このマキの「ちっちゃなときから」をラジオで聴いた。

♪ ちっちゃなときから/ かわいいお前だ/ 何かあったら来な/ こんなおれだけど/ さよなら/ 泣くなんて//おまえらしくもないぜ

男から女へ語りかける言葉である。女の泣きごとではなく、マキが男の側からの言葉で歌う。むろんマキも女。たぶん気に入った歌詞なのだろうが、まずこれが逆方向で新鮮。このあとに高倉健の歌を聴いたが、マキに比べると高倉、男らしいというよりもずいぶん聴き手に気を遣っている。
合気道の東京本部にいたころ、この高倉が稽古に通っていた。鎌倉への帰り道、途中まで一緒に歩きながら高倉は、「前作の――(失念)が評判よかったのでいま「突進太郎」というのの撮影に入っています」と言っていた。
 ラジオにもどる。浅川や高倉といっしょに、藤けい子の「夢は夜開く」や、歌手は忘れたが「フランシ―ヌの場合」も聞いた。
 どれも明るい歌ではない。とくに「フランシ―ヌの場合」は暗い。シャンソンを焼き直したもののようだが、歌詞どおり「フランシ―ヌの場合は、あまりにもおバカさん。フランシ―ヌの場合は、あまりにも悲しい」のである。だが青春とは暗いのが普通なのだ。絵描きの絵も若描きは暗い。突然こんな世界へ生まれ落ちて喜んでいられるものではない。堕ちた天使のような無垢なフランシ―ヌにとってはなおさら。それでも救われるような出会いはある。だがそれはみんな偶然の出会い。しかし必ず別れはやってくる。つまり出会いは偶然。別れは必然。♪あなたならどうする?
※近刊案内『武士道と武道(英文)』――日本人の条件(ヘッドライト)
※発刊案内 『美術カレンダー』(部数限定) ――剣者野中日文の筆のすさび
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行動文化(119) 商品開発と情報処理 

イノベーションのジレンマ
念のために。「イノベーション」とは経営革新、商品開発のための新しい視点、新しい切り口など、誰もまだ開発していない新商品を開発するための新しい視点。つまり、社会の変化にひそむ新しい需要を掘りあてること。たとえば大学にとっては、少子時代の学生募集のための、どこもまだ思いつかない魅力的な新講座の開講。「イノベーションのジレンマ」とは、1997年発表の、ハーバードビジネススクールのクレイトン・クリステンセン教授の論文『技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』が指摘している現代ビジネスの自己矛盾のことだが、要約すると下記の二段階になる。
○イノベーションには従来の商品を改良する保守型と、その反対に従来の商品とは発想のちがうまったく新しい価値を生み出す革新型がある。
○保守型は革新型を軽視し、また保守型の成果はやがて顧客のニーズを離れる。顧客は保守型の成果以外の側面に目を向けはじめ、革新型が力を得る。
かみ砕いていうと、保守型は商品の改良だけを考えやすいから顧客のニーズの
変化に置き去りにされる。また保守型優良企業は、後発企業が現われてもその実力を過小評価しがちであり、また同志討ちを避けようとするから新規事業への参入が遅れる。
クレイトン教授はこれを「ジレンマ」と呼び、イノベーションの自己否定とみているわけだが、しかし武道の立場からいえば、これは「イノベーションのジレンマ」というよりも教授自身の思考のジレンマにすぎない。
 企業の生産性が上がらないのは時代や顧客のニーズに応えていないからである。顧客に置き去りにされるのは潜在需要を発掘しないからである。教授は保守型と革新型に企業を分類しているが、武道にも攻撃型と守備型はいる。だが武道には「ジレンマ」はない。あるのは「戦い方」、つまり戦略や戦術。
クレイトン教授には戦略論が欠落している。戦略論とは「行動科学」。しかし「行動科学」を掲げている大学はあるが、まだ武道を行動科学として掲げている大学はどこにもない。脳ミソまで筋肉化させている武道界には武道の行動科学化は無理。武道の行動科学化とは「知」の戦力化。それには武道の言語化が不可欠。アンテナを高くして情報を集めよ。「非常識」で「気に入らぬ情報」に価値あり。イノベーションとはそのためのもの。クレイトン教授の論法では、この情報処理にも「保守型」と「革新型」の二種があることになるが、情報に保守も革新もあるものか。情報とはそれ以前のものだよ。そもそも教授の「イノベーションのジレンマ」自体が自己撞着の結論の出し急ぎ。▲▲
※近刊予告『武士道と武道(英文)』――日本人の条件 (ヘッドライト社)
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