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行動文化88  

真珠湾は「頭脳戦」だった 

日本の制服組がアメリカの背広組(市民)に敗れた勝負といわれる太平洋作戦だが、これも本質はデスクの上での頭脳戦だった 
アメリカの大統領は非戦論で票を得た人物 有色人種を人とは思っていなかった 「ホワイトパシフィック(白人の太平洋))」の構想には日本が目ざわりだったが、実現には大義名分が必要 ハルノ―トで追い詰めればジャップは必ず出てくると踏んだ 「真珠湾へ日本軍突入」の報に盟友チャーチルは躍りあがって喜んだという
戦いとは勝つためのものである それも戦わずして勝つ、リスクゼロがベスト 火力戦は愚策 勝負の鉄則として「血をみる事を恐れぬ者が勝つ」という意見がある 意見の別れるところだが、人は「知」の生き物 インド独立の父ガンジーは「殺すぞ」と脅されてもイギリスに屈しなかった こう言ってのけている 「あなた方は私の死体を手に入れる事はできるでしょうが、私の服従を手に入れる事はできないでしょう」

戦いとは、飛行機やミサイルでドンパチやることではない 勝てる条件を調えるまでの過程のことである 「必勝の信念」や「覚悟」ではなく、戦えば必ず勝てるという条件を調えることである あとは戦うまでもなく相手は手を出さない 無駄な出費はおたがい避けたい
三島由紀夫とは結局ペンの人 それも理論家ではなく「美学者」 制服に意匠を凝らし、分列行進のほかには何もしていない それでいて最後は割腹自決  
自衛隊に揺さぶりをかけたのだとみればそう見えなくもないが、それにしてはサラリーマン集団と化している今の自衛隊が見えていない 舞台役者気取りで、老醜をさらす前に死にたかっただけのことではないか?
「美学」などどうでもよい 自衛隊を動かすために立つのなら、かつての甘粕のように敵地へ潜入しての効果的な動き方があるはずだが、筆者としてはそれは採らない もっと穏やかで現代的な手法がある それは何か? 解りきったことだ 「外交」だよ それも商売にからめた民間外交
三島には「わからない人」という評があるが、きわめて解りやすい男 ただのカッコつけ 謀略戦どころか射撃訓練さえしてはいない 拳銃もおそらく使えない 三島に比較すれば自爆テロの方がよほど効果的である それにしても教育界は鈍い 「必修武道」で人を育てようとは思っていない 国敗れて忠臣生れ、家傾いて孝子出づ 学校には期待できない では何処へ? 民間の営業人 世界に人脈を持つ商社マンに期待をつなぐ 願わくは業界の諸兄、筆者のネットコラム「垂直思考」と準備中の英文の『武道と武士道』を ▲▲
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行動文化87 師と友 

鉄舟会は筆者の古巣。東洋大の中哲のレベルの低さに見切りをつけて、剣と禅の鉄舟会に移った。
メンバーは多士済々。書、水墨画、事業家、教師、弁護士、武道家といったお歴々が筆者の剣と禅の師である大森曹玄を中心に集まっていた。筆者が入会したときは、早大の名誉教授の松本如石先生が、ちょうど論語を講じておいでだった。
講義は松本先生の無料奉仕。テキストは、巻紙を30センチほどに切ったものに先生自筆の論語の原文。そのまま掛け軸にでも扁額にでも使うことを想定したものだった。大森老師が松本先生へみずから座布団を勧めていたのを覚えている。鉄舟会とは筆者にとっては中国哲学の大学院だった。

会員の中に、書家の横山雪堂老人がいた。
髪は無造作に頭のてっぺんで紫のヒモでしばっただけのもの。最近はとくに珍しくはなく筆者もこれだが、首にかかるのがうるさいのでテッペンでしばる。
この横山先生が新年会では唄をうたうのである。横山老は山県の人、たしか佐渡おけさだったと思う。ハッキリいってヘタ。
このおはこの佐渡おけさを、戦前のことだが師の大森に教えた。その教え方も、佐渡おけさを歌うのに横山老人と一緒に約一時間の坐禅を要求した。
大森老師、けっして歌はうまくはない。酔狂の微吟低声の「蒙古放浪歌」を聴いたことがある。うまくはないが微吟だから邪魔にはならん。まあ、聴ける。ところが横山先生、大森曹玄の佐渡おけさに、「大森君。キミは音痴だ」とさじを投げた。のちに横山老の録音テープの佐渡おけさを、学校の音楽の教師が聴いていわく、「あ、この人音痴ですね。」

南九州大学の合気道クラブの指導にかよった時期がある。
村方という学生がいた。とくにどうという事もない、ごく普通の学生だったがサッパリした、感じのいい学生だった。膝をいためていた。
最近になって、この村方が連絡してきた。男児三日見ざれば刮目してみよ、堂々たる男に育っていた。いまマーケティングのプロとして大阪と東京に事務所(ヘッドライト)をもっている。大きくはないが小回りがきき、仕事ぶりは一流。闘志満々で意地っ張。薩摩生れのボッケモン。壁が厚いほど元気が出るという。 
この村方が小生のインタネットのコラム「行動文化」を読んでいた。
いま欧州向けの『武士道と武道』の英訳出版にとりかかってくれている。
ナマコは酢で食え。男は気で食え。村方孝二、必ずやり遂げる。

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行動文化86 礼剣同根 

行動論としての日本武道

人の行動を「勝負」の図式に置き換えて検討することには、単純化による頭の整理、行動化が容易、結論が出やすいなどの利点がある 
心形刀流の剣客だった平戸藩主松浦静山は、「剣術と礼儀作法とは「用心」の裏と表 こう聞いてもピンとこないのは剣術がまだよく解っておらんのじゃ」と語っている この視点については目下準備中の英文の『武道と武士道』に収録するが、ここでもざっと紹介しておこう
日本武道の代表格の剣技の場合を軸に伝統的な武道の心得をこんな形で取り扱っているわけだが、筆者の谷神会の追究方針に沿って日常行動の中へ武道の心術をどう活用するのかということを、平常心、不動心、間積もりなどの各項目に整理して私見を述べる

剣体 いつ、いかなる場面でも崩れない身心 平常心、自然体、不動心などもみな、この「剣体」の各論である
武道の修練とは簡単にいえばこの「剣体」の鍛錬のことだが、これを日常の行動では感情の制御、つまりイライラ、カリカリしない、びっくりしない、うれしがらせにも舞い上らない みくびらない、調子づかない、悲しみに度を失わない、期待しない、などの態度として鍛錬する

平常心 自然体 剣技といっても特段の意識で使うのではなく、常日頃の身心でいいのだということ 常の身、常の心がそのまま剣者の身心だということ  
してみると行住坐臥、常に剣の身心になっていなければならない かなりきつい修練だが、剣者とは本来そうしたものなのである だが武道で人を育てるとはそういうことなのだ 

不動心 「不動」といっても石のお不動さまになることではない 
動きたいように動きながら「ブレ」ない、崩れない状態を「不動」と呼んでいるにすぎない 臨機応変にさらさらと動いている状態が生き物の本来の姿 である 動かずにいるのは「居着き」である 

構え 敵に立ち向かう時の「備え」のこと 青眼、下段、八双など、構えにはみなそれなりの必然性がある 学んでおく必要があるが、斬るための「構え」なのである 構えに居着くのは本末転倒 要するにその相手を斬りよいように剣を持つまでのこと リストラも「構え」 人員整理だけがリストラではない

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行動文化85 「武士道」再見2 

新渡戸武士道は「忠犬武士道」

日本の中世を席巻した観のある山崎闇斎の「臣道」も、また今では武士道の定番の位置にある新渡戸武士道も、餌ほしさに主君に尻尾を振る「番犬武士道」である 戦国時代の武士たちは番犬ではなかった 犬のように飼い馴らすことは不可能な、「狼」だった
だから、逆説になるが当時「武士道」などという、行動の規範(マニュアル)めいたものは何もなかったと思うべきだろう 
それはそうだろう 「規範」とは、人を繋いでおくための鎖である 自律のための自己規範は持っていたとしても、他人がこしらえた「武士道」などという規範に餌ほしさに繋がれているとしたら、それは精神の位どりの低い下郎 にすぎない 一騎当千の「もののふ」ではない

生き物には、繋いでおける生き物と、そうでない生き物がいる  
犬なら繋いでおけても、鎖でつながれている狼など見た事がない 
狼とは「かわいい」生き物ではない 可愛らしかったら狼ではない ときどき「△△にいた時は○○さんに可愛がられた」などという言い方をする者がいるが、この変態野郎と思う 男が口にする言葉ではない 可愛く、おとなしいネコでさえ、繋ごうとすると噛みついたり引っ掻いたりする ネコの場合は「可愛いがらせて」やっているのである 可愛がられて喜んでいるわけではない これは気位の問題である お間違えなく 由来、小生はネコが好きだ 犬はどうでもよい 腹をすかせていれば水と餌は与える

「武士道」と、欧州の「騎士道」の差異
簡単に言えば、主体性を売り渡さない狼と、餌がほしくて飼い主に尻尾を振る犬との違いである 
民主主義の本家の、この非民主性には我々は意外感がつよい
これは筆者としては推論にすぎないが、この事実は我々日本人が本質的に「理知型」ではなく「感性型」にできているという事ではないか? 
主体性、また「気位」とは、「恥」に直結する自己規範の言葉である
天皇の「信任」には「忠節」を誓う我々だが、権力者の「支配」に対してはクーデターをためらわぬような部分が、我々の血の中にはまだ残っている  
つまり我々日本人とは、本質的に番犬レベルの新渡戸武士道や山崎闇斎の被虐臣道とは相容れない、武士道の本来の姿である戦国武士道の系譜につながっているのではないか? 日本人もまだまだ捨てたものではない ▲▲

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