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行動文化84 「武士道」再見 

英文の武道と武士道を欧州へ 

なぜ英文で欧州へ?
英語文化圏向けの発行は方便 日本人に読ませるために、まず英文で出す
平成の日本は敗戦時の日本文化解体で正気をなくしている
小生の武道論に日本人は反応しない 日本の出版界の大半は「武道」を単なる競技スポーツか、普遍性のない特殊な世界と思いこんでいる このことが盲点になっていて、武道の武の文字があるだけで本は売れませんよ、などと言う
事実そのとおりだろう
だが欧州を知る者は、彼等の日本文化、とくに「武道」や「武士道」の研究が本物であることを知っている 欧州の武道界へ、変貌する前の本物の武士道と日本武道の精髄を紹介すれば、彼等は必ず反応する
欧州が動けば日本は小生の意見を見直す これは過日の上杉鷹山 (鷹山侯は筆者の里) 事件で実証済み 野中日文って誰だ? となる  
むろん売名である 何とでも言わせておく 知られなければ仕事ははじまらない マーケティングのプロなら「ん?」と思う 新分野だから
小著『武道の礼儀作法』は、「礼に始まって礼に終わる」といわれる武道界に礼書が一冊も発行されていないというウソのような事実を知ったことが発端だが、しかし日本の武道界も出版界も小著をいまだに無視し続けている 無視の理由はあとで知ったが、これが日本人なのだ

欧州の日本武道研究の真剣さについて弓道の場合をとり上げれば、オイゲンへリゲルが『弓と禅』を発表して以来、彼等は日本人はみんな弓や禅を学んでいると思い込んでいて、日本人と見れば「弓」や「禅」についての専門的で高度な鋭い質問を浴びせてくる ところが弓の指導に海を渡った弓道連盟役員諸侯公が、これに答えられない 
日本人の器量を下げるために海を渡っているようなものだが、いまや日本の柔道界では欧州へ受講研修に出かけることは常識 恥とは思っていない
この春、日本の教育界は全国の中学校に「武道」を必修科目として採用する
有意義な企画のように思える だが、関係者たちは武道にどんな教育効果を期待しているのか? 
どうもそれがはっきりしない 「伝統文化」とか「武士道」とかいう言葉はさかんに出てくるが、ではそれが日本の武道界にいまどんな形で存在するのか? 問いかけても返事は返ってこない 日本的といえばいかにも日本的だが、小生は武道人の一人としてこの状況を見過ごせない
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テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

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行動文化83 「気結びの舞」 

 

金メダル 

剣の道を往く者たちにもいろいろいる いくつになっても「金メダル」が欲しい者がいるかと思えば、「金メダルがどうした」という顔の者もいる



師の大森曹玄(直心影)は「中年期に剣よりも禅の方が面白くなった」と言っていたが、合気道の植芝盛平も初老のころに「わしはもう武術はやめた 人を投げたり抑えたりは、これは座興じゃよ」と言っていた 武術から言霊の世界へ住み替えたのである スポーツについては「ざれごと」と問題にもしなかった 



金メダルとは他人からもらうものではない 肯心みずから許せる境地へ到達した者が自分に出すものである 「相抜け」の針谷夕雲も、やはり初老のころ剣術に疑いをもった いわく、「相手が弱ければ勝ち、強ければ負け、同格なら相打ちか なに? 当たり前? そのアタリマエが理に堕ちていて気に入らぬ」それで一時期剣を離れたが、「相抜け」に到達して自身に金メダルを許した



 



武道行動学と「舞いの武道」



男=力 異存はないが行動学として武道だけでは、わが谷神会も「花」がなくて寂しい で、いま武道行動学の「舞い」化にとりかかっている 剣の舞には古来詩吟にのせて舞う「剣舞」があるが、これは剣を使っての独り舞いです 見ているだけで元気の出る勇壮な舞いだが、強すぎる 強いばかりが男じゃないよ 「気結びの舞い」は、剣を舞い扇に持ち替えて二人で舞います 見た目は――まあ能舞台のシテとツレの二人で優雅に舞う「連れ舞い」を想像してもらえばよい 当て身も投げも表には出さないが実質は武術の基礎鍛練です



開祖植芝盛平は「戦って相手を破るのではない 勝ってから戦うのじゃ」



また「相手を見るな、構えるな」「合気道は出会いがしらの兵法じゃ」という言い方もしました 不利とみたら合気をはずして取合わない 入れると見たら入り身一足、もう相手の死命を制していなければならない つかむことも揉み合うことも無用 始めもなく終わりもない、舞いのような運足―― 



未熟でもよい 稽古鍛練法だから差し支えない 未熟者だからこそ「稽古」をするのです その稽古鍛錬法が「舞い」としても鑑賞に堪え、また舞うことが楽しければそれで十分 しばらくの時を、非日常の世界で羽を伸ばせる 



全国の女性に呼びかけて指導者をたくさん育て、全国のヤマトナデシコたちに



舞わせたい え? 資質? 指導者は親切でさえあればよい 天才や美人は指導者には不向き これは2011秋に谷神会が発表する生れたての武道の舞いです 近く映像化してインタネットに発表します 手弱女が舞い扇で弁慶のようなゴツイ男を招き寄せてとり抑え、あるいは軽々と投げ飛ばす姿をご覧あれ ▲▲



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行動文化(82) 英訳武士道 

 危ないところだった
 欧州へ「武道」と「武士道」を英訳出版するのにキングズイングリッシュとかアメリカンのレベルで気にしていた テーマもあろうに「武道」と「武士道」、それも物書きを自任していながらこのざまだ
 他人を頼むことはない わが谷神会の会員に直訳させる
 その直訳も、野中日文の文体、つまり短文をタッタッと切ってたたみかけてゆく体言止めの文体を、そのまま英語文化圏へ発表する

 そもそも今回の出版の柱の一本は、「武士道」と欧州の「騎士道」の比較である 小生は本稿で武士道を人には飼い馴らせない「狼」に、また騎士道を飼い主に尻尾を振る「飼い犬」に擬している なんとしたことだ、その白狼である野中日文が、キングズイングリッシュやアメリカンイングリッシュに尻尾を振ろうとした
 小生を育ててくれた諸先輩方に申し訳が立たぬ 明日から三日間、食を断つ

 ことのついでに、小稿の巻末の「参考文献」に言及しておこう
 各位御承知のように、学術書の場合は引用したり照合したりした文献名を明記するのが心得だが、本稿は学術書というよりは技術書である 武士道論など評論にわたる部分もあるが、これも内容は「学術」ではなく行動論(実践論)である 筆者の言語感覚には、「参考文献」という言い方はなじまない
 神、儒、佛、兵法、剣など、学んだ思想や行動は多い 中でも剣・禅・書の鉄舟会の大森曹玄 また昭和の北畠親房と呼ばれる葦津珍彦に受けた影響は大きい ほとんど精神的な背骨をつくってくれた父親と思っている
 敗戦直後の混乱期の関東、戦地帰りの先輩方には男の見本のような人が多かったが、この中でも新宿の街を連れ歩いて飲ませたり食わせたりしながら、何を思ったか急に「ひと太刀あびせて手ごたえあったと引き揚げてくるようではだめですよ 確実にとどめをさして、そのまま畳に縫い付けて、畳ごと担いでもどってくるんですよ」と小生に刺客の心得を教えた島田和繁さん(学習院が三島由紀夫の同期の学徒出陣組)の印象が強烈である 
 かえりみれば、小生は師運に恵まれている 関東時代は日本のトップクラスの武道家や思想家の教えを受けながら、ついに師恩に酬いることもできなかった―― 悲しい せめて小論を今後の日本を託する若い諸君へ「兄」として贈りたい 受け取ってもらえるならこんなうれしいことはない ▲▲

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行動文化 (81)  無時空 

 
深夜のムードテナー

 人とは心 筋肉など鍛えてどうしようというのだ? ヒトの筋力などせいぜい30年 多寡が知れている



 人とは筋肉ではない 想い、「意識」である 



人とは考える葦 鍛えるなら「知」を研げ その命は無窮 若くもなければ、老いてもいない



 人には「死」はない 時空には隔てられない 自分を見くびらないことだ



死ねば終わり? 人とはそんなチャチな存在ではない



「虎は千里往って千里還る」ときいた まあ、たのもしい話ではあるが、千里の砂漠を隔て、万里の波涛に遮られていても、人の想いには時空の制約はない してみると、「想い」とは虎か これもまた頼もしい限りではあるが、しかし事実はそんな都合のいい浮いた話ではない 懐旧の情に限らず怨念も瞬間に直通してしまうのがテレパシーの厄介なところだ 



音楽とは言葉、とくにテナーサックスの響きとは、深夜の千里の砂漠を往く白狼か 男の悲しみの運び手としての能力にすぐれている 



 



つかぬことを伺うが諸兄姉、深夜早朝の半覚醒の耳に、ムードテナーの名曲「ダニーボーイ」、「思い出のサンフランシスコ」、あるいは「ハーレムノクターン」、「モナリザ」をお聴きになったことはないか? ――あ、あれがそうなのか!と思い当たられることはないか? 



発信しているのは、深夜のつれづれに「テナーサックス名曲集」のテープに耳をあずけている小生である 



ムードテナー 青年期によく聴いた あまり楽しい記憶はない テナーサックスを聴いていたのは、おおむね青年の感傷に沈んでいる時だった



若さとはときに無残 テナーの響きはその無残な日々とともにあった



老いるとはこんなものか ときに人の世がうとましく、ときに人恋しい 「発信」しているつもりはなくても、もう逢うことも酒を酌み交わすこともない旧友を思っている 



こんな時は小生、年齢のない霊魂になっている 旧知との間に時空の隔たりはない どこへでも行く 千里をへだてていても、手を伸ばせばとどく咫尺の間にいる つまり小生は千里を往き千里を還る虎ならぬ白狼となって、旧知と対面している 小生これまで自分を、修羅の世界に棲む一匹の狼と思ってきたが、いま白髪三千丈 愁いによりてかくのごとく長し その白狼が深夜にひとり、ムードテナーなど聴いて故人を想っている ▲▲

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