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行動文化(80) 正解とは「中庸」 

 

実社会は「正解なき問い」か?

 朝日紙(2363 宮崎) の「教育 あしたへ 学力を超えて(3)」の大見出しに、「実社会は〃正解なき問い〃」とある 



まず「正解」という言葉の解釈が問題だが、「実社会」といっても内容は多岐にわたる 場面を限定しない問いなど答えようがない 『バカの壁』の「人生で出会う問題には正解はない」の論法がこれだが、しかし視点を「ものの考え方」や「行動」に絞り込めば、問題点はおのずから見えてくる 見えてくれば対処法はきまる それを正解と呼ぶこともできる



物の考え方は哲学に、行動論は兵法、とくに剣に集約される



剣をふくめて「兵法」とは、ものごとを「勝負」に置き換えた上での「勝ち方」、すなわち一種の成功方程式である つまり多少乱暴を承知でいうなら、実社会には「正解」は、ある 問題は兵法の視点を日常の言動に置き換える気持ちがあるかどうかだろう 古流の剣を学んでいるビジネスマンで、初対面の相手との交渉に剣の心得が役に立つという男がいる



 



正解とは「中庸」



我々の日常行動とは要するにTPOの使いこなしだが、この使いこなしにも「基本動作」や「正解」というものはある 



朱子学ではこの正解を「中庸」と呼ぶ 中庸の中とは、足して2で割ることではない 的中の中、中(あた)る、と読む 正解のことである 



正解とはTPOの使いこなし つまり各論 剣の行動論に置き換えれば、中庸とは乱闘の中での「お面!」一本



「自由」の各論とは、只一つの選択 「平等」の各論とは差別 



 企業社会が新人に求めているのは、発想と行動の自主性、問題点の発見と解決力、求めていないのが指示待ち人間――こう並べてみて思うのが、これは武道で養える人格だということ 



 「彼を知り、我を知る」 この目に狂いがなければ「百戦不殆」 つまり目指す企業の採用テストは一発でパス 「想定外」? 無能の立証でしかない



じつに兵法こそは、実社会での正解の出し方のエッセンスである



ビジネスモデルとは剣の型 兵法の攻略法 これを使いこなす上での必須の条件が、彼を知り、我を知ること、目付け(視野)、構え、間積もり、位どり、タイミング 禁忌が、迷い、怒り、みくびり、居付き――といった、いくつかの心得 これをビジネスにどう活用するか 失敗例に学ぶのが効果的 福島原発が反面教師 そのすべてが剣の鉄則にそむいた当然の結果 すなわち天罰 



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号外 今期からの義務教育の「必修武道」関係者諸士へ 其の三 

日本人の条件
「垂直軸」が条件と言いきってよい しかしこれが裏目に出ると「思考放棄」となる 結果責任を追及しようにも、事が終わったら責任者はもうそのへんにはいない そしてみんな被害者顔をして、「どうしてくれる」などという こうなると始末が悪いが、日本人の魂の遺伝子は「論理」ではなく「感覚」 だからすぐ泣く しかし感激感動型とは純真純情ということでもあるのだ
きめ手は「オテントサマ」を担ぎ出すこと かならずなんとかなる 未だにわが国は神の国 おてんとさまに柏手を打つ習慣はまだ残っている 忘れた連中の頭上に鉄槌が落ちた
結局のところ、日本人らしさとは権利意識よりも「恥」に敏感であること 慎み、憚り、テレ、はにかみ、ものをハッキリ言わない(察してもらいたい) 遠慮「世間様(みなさん)」が基準になること 以上を天・地・人の垂直軸の中に意識しているかどうかだろう 

行動論としての日本武道 ――「天地神明」に恥じぬかどうか
剣も礼も「用心」の心得だという、幕末の平戸藩主松浦静山の「礼剣同源」論がその代表だろうが、これも最終的にはやはり「おてんとさま」なのである  
「腑仰して天地神明に恥じぬ」かどうかが戦前までの日本人の行動を律していた 「天地神明」を平言葉になおせばオテントサマとなる オテントサマとは「道義」の神
イジメ問題などこの一発でかたづく むろん彼等はオテントサマと聞いてもすぐわかるわけではないが、なんだか怖そうな、ありがたそうなモノだぐらいは感じて、ひるむ 血の中に刷り込まれている 日本人にはオシャカサマよりも有難いのがオテントサマなのである
孟子の王道論では、これは「仁義」の問題になる 仁義、を一文字で表わせば「道」、すなわち道義、道義=オテントサマ  

●● 以下は各論
日本武道の心の技
直心 学習の成果としてではなく、生まれながらに身に備わっている、生きているものすべてを生かそう生かそうと働いている「天意」を、直心影流の剣では「直心」と呼んで重視する この視点は医学の「免疫力」につながり、孟子の「王道論」につながり、日本人の「安神立命」につながる、日本の芸道を一貫する垂直軸である 

○剣体 身心ともに「崩れない」姿勢をいう 剣の修練とは剣体の鍛錬のことだが、しかし同時にこれは「人間廃業」の構えでもある だがこれは致し方ない 「禅」の修業がこれなのだ それで「剣禅一如」という
 
○自然体 構えの一種 つまり変化自在の戦闘姿勢の一種 この「自然体」は人間の言動すべての場面で用いられるようになっている 「自然体」に限らず、「平常心」も「相打ち」も「間積もり」もすべてそうだが、日本武道のふところの広さと深さである 
 
○平常心 「つねの心」のことだが、日常茶飯の、なんの変哲もないごく普通 の、コロコロと動いている意識をいう これに対して、非日常の「真剣」、「必死」とは硬直した、応用変化の利かない、剣の立場からいえば「居着き」にあたる心の「死に体」である 

○不動心 これも上記の「平常心」を言い換えただけのもの 内容は同じ
剣は「居着く」ことを嫌う 硬直を嫌う 心は常に「臨機応変」を維持しなければならない くりかえすが、心とは常にコロコロと動いているのが本来の姿 コロコロがココロとなった 「一所懸命」はよくない 「不埒」がよい お間違えのないように もと太陽族の石原都知事は「不良っぽさ」こそが少年たちの本質だという さすがによい視点だ オリコウサンよりもワルガキがいい オリコウサンの別名が「バカ」 バカたちの仲良しゴッコが会社をつぶし、国を滅ぼす 

○目付け 視野の取り方と着眼点の心得 拳銃では「ボンヤリ照準」と教える 凝視はよくない 見ていながら見ず、見ずに見ている 「知らん顔」も目付けのひとつ 合気道の植芝盛平は「見るな、構えるな」と教えた 「合気されるぞ」と 主体性の維持を剣の心得に置き換えるとこうなる

○間合い 相手との距離の心得のことだが、これを日常的な対人関係に応用す
ればイヤな相手とでも付き合える いま必要なのは「時代との間合い」の取り方だろう 巻き添えを食うのは間合いが近すぎるのだ

○見切り 相手の意図を見抜いて外すこと 達人には一寸の見切り、五分の見切りができるという 太刀筋を読む 他人の意図、態度、言葉を見切る 暴言を見切る 時代を見切る 未来を見切る 原子エネルギーを見切る 応用自在
実例をひとつ挙げましょうか 古代中国に柳下恵という賢者がいた 同僚との議論の最中に、痛いところをつかれて逆上した相手が柳下恵にペッ!と唾を吐いた 中国人はよくこんな事をします 「唾棄」というやつ ところが柳下恵、動じない 平然としている 見ていた者があとで、貴殿あの時どうして怒らなかったのか? 柳下恵答えていわく、「唾を吐いたのは彼 怒るかどうかは拙者の勝手」――カラスの勝手というわけだ
 打ち太刀なら一歩退けばはずせる 暴言をはずすには一歩も動く必要はない 逆上しやすい男が一人、目の前に立っているだけの事だ

○位どり 心理的なものであれ物理的なものであれ、どんな立場、どんな姿勢で応対するかという心得 「構え」のひとつだが、たとえば親に対する子、子に対する親、それぞれに「位」のとりかたである 位のとりかたで動き方がきまるが、親子兄弟男女、敗戦でみんな平等になってしまった それで我々は豊かになれたか? 貧しくなった  
 
○拍子 剣の場合、打突の技を生かすのも殺すのも間合いと拍子(タイミング)である 時間の間(タイミング)を外した振る舞いをマヌケ(間抜け)と呼ぶ マジメとは「間」の締まった、「間」の抜けていない振る舞いのこと 剣も言動も「間」がぬけたのでは仕事にはなりません

○居着くな  「剣体」とは「居着きをなくした姿勢」 「居着き」とは身心の「死に体」 剣の場合、相手を見ているうちは隙はない だが、出よう、打とうとする一瞬に動体視力を失う この一瞬を待っている「出小手」専門の剣道屋がいる 「出よう」という思い(予定)に居着いて身心ともに死に体になる 実例でみてもらうのがいいでしょう つぎのような場面
登校の門限に遅れて駆け込もうとする生徒を、見張っていた教師が鉄柵ではさんで圧死させた事件がある 生徒は駈け込もうとする、教師は鉄柵を閉めようとする 双方ブレーキが利かなかった 
この場合、生徒は教師をみて、立ち止まって遅刻した事を詫び、教師は「明日からはもっと早く家を出ろよ」と言葉でたしなめるのが職務のはずです 
「教育指導」と「監視」や「見張り」はちがう 体育会系の教師に多いが、脳ミソまで筋肉化しているキン肉マンのこんな教師に子供を預けられますか

以上、「見切り」と「居着き」の二例で日常行動の中での剣の心得を示したわけですが、「位どり」にせよ「平常心」にせよ、日常行動に置き換えられぬ心得は、本来の日本武道にはございません ▲▲


むすび
執筆に一区切りつけ、夜具に足を伸べて見る夢は、スミレ、タンポポ、サクラソウが咲き、スズメ、ニワトリ、ネコが遊んでいる陽だまりの小天地に、清冽な岩清水でのどをうるおし、生き物たちと乏しい食をわかちあう、なんの蓄えもない、その日暮らしの、戦車もミサイルもいらない日常です 
この陽だまりには自然科学はないが、オテントサマが見護っていて、みんなその日暮らしに安んじ、ケンカをするにも仲良くケンカしている 相手が泣きだしたらそこでやめて、ごめんね、という風景です 
科学文明は人をどこへ連れて行くのか――今期の地球文明は、おそらく原子力で亡ぶ 鳥も、虫も、みんないなくなる 悲しい
「科学」という現代の神は、信仰が深まるほど我々に、「安心」ではなく「不安」を与えたまう この事に気付いている者はけっして少なくはないのだが、預言者は世に容れられぬ せめてニセキリストたちとの戦い方を学ぼう
「人」から出発する西洋文明にふれる以前の、本朝はえぬきの戦国武士道と、本朝開闢以来の日本武道に、生き方や戦い方のモデルがあります 力がすべての時代ではあったが、それは財力がすべてと言いきってもよい現代も、本質的にはいささかも変わってはいません 我々が背負っているカルマなのでしょう 
ならばいっそ出発点へもどってみませんか 
戦国武者たちの価値観とは、けっして人には飼いならされることのない、わが道を往く「狼」の生き方でした 石原都知事が筆者と同じところを見ていると知ったのは最近の収穫です 石原さんは、「良い子」は食わせ者だという 本音を隠していると してみるとオテントサマをかつぐ小生も「太陽族」か
源氏物語に登場する美悪雑乱のプレイボーイ光源氏の姿に、けっして飼い馴らされることのない狼の気性を尊ぶ、戦国武士道を想うことがあります
武道も変質し、武士道も御用学者たちに悪用されてしまったが、しかし戦い方の心得は、「視野を広くとれ」、「居着くな」、「間積もり」、「支配されるな」、「受けるより攻めよ」などという言葉としてまだ残っております これらの言葉を手がかりに、戦い方を原点から学び直してみようではありませんか ▲▲

テーマ: 文明・文化&思想

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号外 今期からの義務教育の「必修武道」関係者諸士へ 其の二 

<前号につづく>
執筆者の思想的な立場と視点
インタネットの「野中日文」の検索で執筆者に関するデータはすべて入手できるが、筆者の思想的な立場は、まず小学生のころから愛読してきた東洋の実践論である『論語』、『孟子』などの朱子学の古典 それから成人後の『孫子』、『蔚繚子』などの戦略書 禅を経て本居宣長、賀茂真淵の復古神道への回帰である 興味本位に渉猟したのだが、結果的には先輩方が学ばれた神、儒、佛という三学のあとをたどったことになる
武道については中学生当時からの柔道、のちの剣道(高野佐三郎門)への転向、その後の無刀流、直心影流などの古武術の渉猟を経て合気道開祖植芝盛平に出会い、その直伝の武術と心術を学ぶ幸運に恵まれ、闘争の技術がそのまま万物万類を愛護する道へつながる日本武道の構造を知った 筆者の「武道行動学」には上述の三教と開祖直伝の合気道神学(言霊学)が下敷きになっている


●以下は概論
日本の行動文化の特質 
進歩するほどに、民に「不安」を授けたまうのが現代の神「自然科学」である そのことはお互い、今般の原発事故で思い知らされたはずだ
原子エネルギーとは、人には制御不可能な八岐大蛇 水平思考の現代人には使いこなせない 思い上がって無辜の民に国を売らせた 天罰である    

○垂直思考――筆者独自の視点からの、自然科学の水平思考に対する垂直軸の思考法、人は天と地とをつなぐ者として、天地の間に垂直に立つ その視野に入るのは永遠無窮の人の命 これに対するのが「畏れ」や「慎み」を忘れ、自然を征服の相手と思い上がってしまった自然科学の水平思考 行き詰まりは目に見えている 物質科学の水平思考は今回、「天罰」の対象として頭上に鉄槌を受
けた 以下は垂直思考の利点弱点と対策

○ 十字思考 人は大地という水平軸に垂直に立っているから自分の現在位置が見える これが「立場理解」という行動(礼)の起点だが、立場がわかるためには垂直軸の中の水平軸(仲間意識)が不可欠 

○「やまとだましい」についての誤解――本居宣長の「やまとごころ」とは、ものに感じやすい繊細で鋭敏な十六乙女の心をいう 戦争目的で運用を誤ったが、「八紘一宇」とは本来、地上の生き物を仲間たちとみる視点である 

○日本語(やまとことば)は垂直軸の感性用語 詩歌表現に向く 論理構成には向かない だが、今期の文明(水平思考)の行き詰まりには有益な提言が可能 垂直軸をもつ言葉だから
  
○戦闘の場面では、論理的にではなく感覚的に対処する メカニックな集団戦にでなく、剣技など個人の感性と能力に才能を発揮する

○ものづくりでは、新開発や発明よりも手先の感覚で勝負 コスト意識に乏しく、「誇り」と「恥」で動くのが世界に類例のない日本の職人たち 捨てるべきではない国の宝

○学習成果としての能力よりも天分、天賦の能力(良知良能)で対処 直心影流の剣でいう「直心」の存在に光を当てることで人知を超えた世界が見えてくるが、教育法を考えないと普遍性をもちにくい

 
「道」と「術」 

○「道」とは観念 「術」とは行動
 本稿では武術を、危険を知り危険を回避するための危険学、一種の行動科学として追究する この視点からは「礼」もまた「危険に対する感度」を核とする行動科学である 人の心の動き(危険)が読めなくては礼も剣もどう動けばよいかが見えない 危険を知るのは感性の領分 危険に対処する動き方を「術」と呼ぶ 手法、テクニックのことだが、原子エネルギーの危険性に気付かなかったのは致命的 自分の「都合」や「事情」のために相手が見えないのだ 征服するつもりが征服されてしまった これは剣にもどって考えれば、ごく初歩的なミス

○道徳教育と学校武道の相互関係について
道徳教育が「やさしさ、いたわり、おもいやり」にとどまるうちは行動には結びつかない 武道の鍛練法は本音と本音の真剣勝負である この勝負に勝ち抜くためには決して無視のできない勝負の鉄則があるが、これが「道」 ものの道理のことである 
この視点からは分野を問わず技術者とはすべて「求道者」である 道を踏み外したら天罰あるのみ オテントサマが見てこざる 今次文明の自滅の構造 おそらく今回の「必修武道」が、残された最後のチャンスだろう

○実践論としての勝負哲学 
ものごとを「成功と失敗」の図式、「勝ち負け」の図式に置き換えることにはどんな利点があるか 
まず単純化することで頭が片付き、行動化が容易 比較検討によって結論が出やすい 筆者の場合、『孫子』が有益だった ぐずぐず言っていても始まらぬ、この場をどう切り抜けるのか? 頭デッカチの筆者の場合、これが収穫だった 日本武道を「金メダル」に終わらせてはならない

○戦略論(兵法)と戦術 観念論と各論
視野のとりかたの問題だが、行動論としての本稿は問題の所在を明らかにするために、多少の乱暴を承知で我々の行動のすべてを一つの勝負の場面に置き換えてみた すると剣術を拡大すれば戦略論となり、場を置き換えれば政治手法となり、政策を対人関係の場へ移せば「礼儀作法」になる すべて危険に対する感度が羅針盤の行動論である
わが国の学校教育では「行動」を教えない 道徳の時間はあるが、その内容は「基本的人権」のほかには「やさしさ、いたわり、思いやり」しかない それで「武道必修」というわけだろうが、腕力レベルの武道しか視野には入っていない 人とは「考える葦」 「知」の戦力化を講じてこそ現代の武道教育

現代は「頭脳戦」の時代
刀槍の時代は明治維新で終わった 現代は頭脳戦の時代だ 頭を切り替えよ
どう切り替えるか
義務教育課程での「武道」では、「無事故」は必須の条件になる
無事故とは文字通りの「事故ゼロ」でなければならない そのためには指導者は教師としてではなく、「必修武道」にわが子を託する親の立場で子供たちの前に立て もし子供たちに傷を負わせたら「自裁自決」の覚悟で子供たちの手をとれ 現代とは刀槍の時代ではない 少年たちの実人生に有益な、「知」の戦いの鉄則を教えよ 関係者諸士にその覚悟と用意はあるか
生涯を武道とともに過ごしてきた筆者は、そのための助言として本稿に松浦静山の「礼剣同源」論を援用した 筆者独自の視点からの「武道行動学」の提示である ご活用願いたい 告訴騒ぎをひきおこして、法廷に「被告」として立たされないためにも ▲▲

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号外 今期からの義務教育の「必修武道」関係者諸士へ 

あらすじ (英訳版)武道と武士道    
日本人の条件 ――オテントサマ 武道と武士道 日本の士道は壊滅したか? 忠犬武士道よりも光源氏 武道とスポーツとの違い 「恥」の文化

本稿の構成
まず執筆者の経歴を示す各種資料、つぎに本文を一貫する筆者独自の視点のいくつかを概論として列挙したあと、各論として日本武道の心術を列挙し、この心術の日常行動への置き換え方を示す 文体としてはなるべく専門語を避け、話し言葉による平明な表現を心がける (※)本葉は「梗概」なので文字の節約のためにやや生硬な表現になっています

英語版を先に出す理由
 英語文化圏向けの発行は方便 日本人に読ませるために、まず英語で出す 
平成の日本は敗戦時の日本文化解体で正体をなくしている 小生の武道論に、日本人は反応しない 日本の出版界の大半は「武道」を単なる競技スポーツか普遍性のない特殊な世界と思い込んでいる この事が新刊企画の盲点になっていて、武道の「武」の文字があるだけで本は売れませんよ、などという 事実そのとおりだろう 
だが欧州を知る者は、彼等の日本文化、とくに「武道」や「武士道」の研究が本物である事を知っている 欧州の武道界に、変質する前の本物の武士道と日本武道の真髄を紹介すれば、彼等は必ず反応する   
欧州が動けば日本は小生の意見を見直す これは過日の上杉鷹山事件で実証済み 野中日文って誰だ?となる 無論売名である 知られなければ仕事は始まらない マーケティングのプロなら「ん?」と思うはずだ 新分野だから
 小著『武道の礼儀作法』は、「礼に始まって礼に終わる」といわれている武道界に礼書が一冊も刊行されていないというウソのような現実を知ったことが発端だが、しかし日本の武道界も出版界も小著を未だに無視し続けている 無視の理由はあとで知ったが、これが日本人なのだ 
欧州の日本武道研究の真剣さについて弓道の場合をとり上げれば、オイゲンへリゲルが『弓と禅』を発表して以来、彼等は日本人はみんな弓を学び禅を修めていると思い込んでいて、日本人とみれば「弓」や「禅」についての専門的で高度な鋭い質問を浴びせてくる ところが弓の指導のために欧州へ渡った弓道連盟の役員諸氏が、これに答えられない 日本人の器量を下げるために海を渡っているようなものだが、いまや日本の柔道界では欧州に受講研修にでかけることは常識 恥とは思っていない 

この春、日本の教育界は全国の中学校に「武道」を必修科目として採用する
有意義な企画のように聞こえる だが、関係者たちは「武道」にどんな教育効果を期待しているのか?
どうもそれがはっきりしない 「伝統文化」とか、「武士道」とかいう言葉はさかんに出てくるが、ではそれが現在の日本の武道界にどんな形で存在するのか? 問いかけても返事は返ってこない 日本的といえばいかにも日本的だが、筆者は武道人の一人としてこの状況を見過ごせない
合気道の場合も状況は変わらない 欧州人の中でも日本文化に通じている階層は合気道を「動く禅」と評価しているが、欧州へ出かける合気道人の中に、本格的に禅を学んだ者が何人いるだろうか? 坐禅の体験者さえほとんどいない まして今回の「武道必修」に、日本人の行動文化の根底を支えている「神道」、それも賀茂真淵、本居宣長の「復古神道」についての素養のある者が一人でもいるのだろうか? 
武術といえば兵法、兵法ときけば『孫子』だが、日本の武道界は『孫子』や「礼儀作法」ときくと首をすくめる かつて小著『武道の礼儀作法』の執筆企画を知って首をすくめた者の一人が日本武道館のトップである ほかにも店頭に出た同書をみて「お堅い本をお書きになりましたなあ」とあきれ顔の武道界の重鎮がいる こんな連中を相手にしていてもはじまらんではないか

国敗れて山河あり 春はさくら 秋の紅葉 白雪を戴く秀麗な富士――日本の山河はまだ十分に美しい 老いを知らず衰えを見せない永遠の美女―― 惜しむらくはこの美女に配し、この美女を護るべき一騎当千のサムライが――いないとはいわぬが少なすぎる 一人の本物のレディには八人の屈強なナイトのエスコートがつくべきだ 
このナイトたちを必修武道で育てたい サーベルにも拳銃にも頼らない現代のナイトたちを 問題はその手法だが、この春からの「必修武道」にそんなものは用意されていない

義務教育課程での「武道」では、「無事故」は必須の条件になる
無事故とは文字通りの「事故ゼロ」でなければならない 指導者は教師としてではなく、「必修武道」にわが子を託する親の立場で子供たちの前に立て
もし子供たちに傷を負わせたら「自裁自決」の覚悟で子供たちの手をとれ 
これが日本のサムライの振る舞いだ 確信を持って少年たちの実人生に有益な、「武道」による学習成果を挙げよ 関係者諸士にその覚悟と用意はあるか
生涯を武道とともに過ごしてきた筆者は、そのための助言として本稿に松浦静山の「礼剣同源」論を援用した 筆者独自の視点からの「武道行動学」の提示である ご活用願いたい 告訴騒ぎをひきおこして、法廷に「被告」として立たされぬためにも
「武道」こそは日本の行動文化の最後の砦 中等教育への武道復活大いに結構 だがそれを今後の日本を担う少年たちに、いったい誰がどう伝えるのか?
筆者もう残された時間がない 本稿の英訳出版で死に花を咲かせたい 

      平成壬辰春 日向国 左近太郎野中日文

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行動文化 (79) 「舞いの武道」 

 

鷹の舞

 






ヤマトナデシコ達へ「舞の武道」を贈る

男の条件とは「力」 異存はない が、武道を行動学に置き換えただけでは、わが谷神会もいささかさびしい 酒……まちがえた、「花」なくして何の人生ぞ  



古人いわく、「人はおのれに見合った舞を舞いながら生涯を終える」 なろうことならお互い、生き辛い世を美しく舞いたいではないか 



剣の舞には古来、詩吟にのって舞う勇壮な「剣舞」がある 見ているだけで元気の出る舞いだが、しかし腕力気力だけのことなら強い男はいくらでもいる  



花のない男はつまらない 面白からず候 末法の世 いずこも同じ秋の暮れの宵闇の中に凛として咲き残るキキョウの花――その通り 強さが条件とはいえ、男も汚れてはなりません 汚れても、男でなければなりません



しかし、そもそも「気結びの舞い」などというガラにもない事を企てた動機は、ヤマトナデシコたちをわが谷神会に招きたいからです ナデシコ方には、わが谷神会の「舞いの武道」部門の主役をつとめて頂きたい 



わが国は神代の昔から女性が主役なのです 異国のフラダンスの後塵を拝しているだけでは、ヤマトナデシコの沽券にかかわるのではありませんか 



谷神会では、男どもは稽古場でも舞台でもヤマトナデシコ方の引き立て役、つまりとり抑えられ、投げ捨てられ、斬られるという汚れ役をつとめます 動きが能舞台の「つれ舞い」に似ているという評がありますが、わが意を得たり 強さよりも谷神会は「幽玄」と「優雅」を大切にしたい



しかし、この「気結びの舞い」は目を楽しませるための舞いではありません あくまでも武道の稽古鍛練法の一つ 気結びと体さばきの基礎鍛練が、外見的には優美な舞いに見えるということです 「当て身」も「投げ」も表へは出しませんが、「ここで当身が入る」とか、「これに弾みをつければ投げ技になる」と、見る者が見ればわかる 



外見が優雅な「舞い」なので野中は武術は捨てたのかという声がありますが、そうではありません 「舞い」としか見えない動きの本質は白刃の動きのような勝負術です 私はここにわがヤマトナデシコたちの本質を見ます それでいて、「舞い」としても美しく、また舞うことが楽しいのは望外の仕合わせ ひとときを非日常の世界で羽を伸ばせます 



全国のヤマトナデシコたちに呼びかけて指導者育成にとりかかりますが、ただし受講には条件があります 「天才」と「美女」はおことわり ――その通り あなたは失格 指導者の資質とは「親切心」と「根気強さ」、この二つです どうやら時代は女性の時代に入ったようです 「舞い」としての型を覚えたら、各地に散って自分の道場を作って下さい 支援します ▲▲



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