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行動文化(78)  竹中 労という男 

 

人生とは「文体」

革命論と芸能評論の世界に、竹中 労という男がいる



こんな文章を書く



――音楽は、うたは階級意識よりもすぐれて革命(反革命)であり、窮民を真に革命のエントウシアスモス(憑霊)へと、脱自の叛乱へと導くことを、あるいはその“暴民”へのエネルギーを、諦観と感傷に拡散していってしまうことを、一九五二年夏ま昼、ひばりとの出会いでおいら感得した――(『竹中労行動論集 無頼と荊冠』から。73年、三笠書房)



07715日付の朝日紙文化面に、「竹中 労は終わらない」のテーマで上記の文章とともに竹中の仕事ぶりに関する記事(西岡一正)が出ている 



昨今は、このての文章(竹中の)にはまったく出会わない 



生硬といえばこれ以上の生硬はなく、文字表現へのこだわりがもたらす脱俗といえばこれ以上の脱俗はない、魂だけがギラついている、刃物のような文体 である 読者を選ぶことおびただしい つまり、まあ売れない



竹中については小生、予備知識はあったがそれは昔の話 芸能界には何の関心もなかったからヒバリへの意見についても、この記事に接するまでは竹中の問題意識とはすれ違っていた 



各界の著名人を俎上に乗せた『エライ人を斬る』に示される叛骨ぶりについては当時、ただ「キャンキャン吠える小うるさい奴がいる」といった程度の印象で、「ケンカ屋」の悪評もついてまわっていたというが、いまあらためて思う 



問題意識はこの竹中、小生とほとんど変わらない



 



小生を「右」と思っている者が多い ピンボケである 小生は孟子の徒 孟子はアナーキスト 今もなお革命者たちに担がれる   



『エライ人を斬る』にみられる反権力、しがない無名の存在への共感、そこに竹中は物書きとしての自身を重ねたのだと朝日の西岡記者は書く ペンをとる身として共感を覚える筆遣いである 記憶にとどめたく、メモを兼ねてここへ書き誌す 



この竹中、警察署襲撃で逮捕され二カ月の黙秘 釈放の日のパチンコ屋の前 /そこへ、うたが聞こえてきたのだ。うたは心に落ちてきた、私は急に切なくなった、涙がこぼれてとまらなくなった。♪リンゴの花びらが風に、散ったよな……/これに竹中まいった 泣いてしまった とめはせぬ 泣くんなら泣いちまえ ガキのころのように おれもつきあってやる ケンカ屋の感傷 (『完本美空ひばり』) 



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行動文化(77) 

 

人生に「習作」はない

柄本明という役者がいる 彼の「東京乾電池」という一風変わった劇団名を乾電池の会社と思いこんでいた人がいるが、演技を感じさせないこの柄本にほれ込んで自分もこの劇団に入りたい、役者になるにはどんな訓練が必要なのかと問い合わせて、気の毒に「キミはうちには縁がない あきらめろ」とにべもなくつっ放された青年が宮崎にいる 



そういう事なのだ 団体名に「乾電池」を使ったのはおそらく自前のエンジンを意識してのことだろうが柄本は飼い犬ではない 柄本は芸(演技)はしない 芸をさせられるくらいなら死んだ方がマシと思っている  



ボブ・ディランという歌い手がいる 彼に触発されて自分の世界をつくったのがヨシダタクロ―だという ほう、と思って聴いてみた 



ボブの発声には特有の気合いがあってほとんど作意を感じない とくに「風に吹かれて」は馬上のカウボーイの鼻歌の感じだが、タクロ―の声は芸能人のものだ ボブに触発されたのだそうだがお客様相手の演技 



評論にも「練習」や「習作」などあり得ない 評論はいつも真剣勝負 相手は雇い主でも顧客でも応援団でもない どっちかといえば敵 通じなかったらそれまで 「訓練」を否定し「演技」を拒否する柄本は面白い 



 



人とは「香気」



ちょっと古いが、久しぶりに、D・ミネの「旅姿三人男」を聴いた 



三人男とは、清水港の次郎長の子分「大政・小政・森の石松」の三人のことだが、あらためて聴き直してみると、歌の文句とはいいながら絶妙のキャラクター描写だ 



♪ 清水みなとの名物は お茶の香りと男伊達 見たか 聞いたか あの啖呵 いきな小政の、いきな小政の旅姿 



♪ 富士の高嶺の白雪が とけて流れた雪水で 男みがいた勇み肌 なんで大政、なんで大政、国を売る



♪ 腕と度胸じゃ負けないが 人情からめばついホロリ 見えぬ片目に出る涙 森の石松、森の石松、いい男 ――と、こんな調子だ



この三人男、実像はどんなふうだったか知らない 知りたいとも思わない 



そもそも親分の「次郎長」ご本人、写真が残っているがいい男ではない だがそんな事はどうだっていい 三人男、この歌さえ残ってれば、なまじの実物になど用はない 逢えばたぶんイメージはこわれる つまり歌が作った香気 こっちは本物にではなく、残り香、すなわちイメージに用があるのだ



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行動文化(76) 忠孝 

 

はて? もう戦後七十年ちかい 今さら何で「忠孝」?――此奴とんでもないアナクロか ちとアタマでもおかしいんじゃねえか? 

ことわっておくが小生、「垂直思考」が看板の、野中日文である あいにくだが、過去も未来もない無時空の世界に棲んでいる これを御縁にお見知りおき願いたい 



以下は講義でも説教でもない 十六歳のワルガキ野中日文の反抗である 左様、まだ小生反抗期の真っ盛り まっすぐ申し上げる



山崎闇斎の忠犬武士道ではどーだか知らないが、「忠」という文字の本来の意味は、ひとつ心 樫の実の萼の中には、実はひとつしか入っていない で、樫の実のひとつ心 ウソがないことである 



君に忠? なにを言うちょるか 「誠実」が忠の字義 これは対人関係での基本姿勢 親に対しても、子に対しても、友人に対しても、顧客に対しても、つねに「忠」でなければならぬ 



じゃあ「孝」は? 「親に孝」に、とくに異論はない だがこれも相手は親には限らない 仁愛や恩義に対する忠が「孝」 師へも孝 先人へも孝 顧客へも孝 ただ、友人同僚や弟に対しては、「孝」の文字は使わずに「誼」を使う  



これが「友」 え? なに? それは「差別」じゃないか? そうさ 差別だよ 差別で悪かったな 「礼ハ異ヲ弁ツ」(礼記) ものには順序が、場には位置が、人には遇し方がある 亭主が賓客より上席にいるのはよくないよ 「差別」を取っ払ったら「礼」の根幹が崩れっちまうぜ  うふ、もう崩れてるか 



仁義



まあた、また? ほかに言い様はねえのか? 



無くはないが小生、この簡潔な二文字が捨てられぬ 小生が見捨てたらこの二文字、路傍のドブへ棄てられてしまう それは仁義の道に反する 



男は「気」(侠気)で食え ナマコは酢で食え 男が「侠気」を忘れたら、それは「男」ではない ただの♂だ 



「仁義」とはヤクザのお兄さんのアイサツではない 朱子学の内容を二文字につめたら「仁義」となる 強きを挫いて弱きを助けることが任侠だが、「任侠」とは、ヤクザのお兄さんの専売特許ではない



女にも「姐御(あねご) はいる 男女にかかわりなく、少なくとも他人の難義を見過ごせぬ者はみんな「侠」だ 議員諸兄姉は基本的にはみんな侠だが、小生は、たとえば菅、亀井、蓮舫女史などに「侠気」を感じる



江戸の町の、火消し組合での合言葉が、「義理と人情とヤセガマン」だった この三つを一つにまとめたのが「侠」 サイコロや花札は関係ない ▲▲



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行動文化(75) 道 

 

どう生きる?

生き方――なまじの知性派は、これでひっかかる



どう生きるもこう生きるもなかろうよ 好きなように生きたらいい お前さん、どこかのエライ先生、例えば東大の哲学の教授あたりに「こう生きるのが正しい生き方」と言われれば、「へえ、左様で」と従うのか? そしていろいろやってみて、「これでようございますか?」とお伺いを立てるのか? ガキのように――しっかりせい 教授の見解は教授の見解 君の見解は? 



我々はお互い、他人とは貸し借りのできない自分の命を生きている 屁ひとつ貸し借り無し 「生きている」とは、自分がここにいて、息をしていること   



すなわち、生きることの基本形は、「居る」ということ 



これは「正しい」とか「まちがっている」とかの問題ではない 人とはリクツではなく存在 ところが心のバランスを崩すと、この「居る」ということが大仕事になる 危ない 小生も中学生のころ、これにやられた 



生きることの基本形が、「居る」ということ 居ることの基本形が、息をしながら何も思わず静かに立ち、あるいは坐っていること これが鎮魂 ゼロ意識



何も思わず、黙って坐っていれば「正しい」も「まちがっているも」もなく、「居る」ことができる これが「静虚」、静かに立ち上がって歩いてみる あれこれ思わなくても、歩ける これが「動直」 障害物を避けながら歩くのが「道」



 人は知の生き物ではあるが天地の子 神の直系 天地の間に垂直に立て  行き詰まったら天地に問え 天は生き物を窮死させない 良知良能が働く



 



性にしたがえ



性、とは天が与えた生き物の本能 渇けば水を飲み、飢えれば食らい、疲れたら休息 悲しければ泣き、嬉しければ顔をほころばせ、いわれなき暴言には怒る これが「性にしたがう」 特段の沙汰はない だがこれだけでは問題は片付かない 「生き方」とはセオリーとかポリシーとか呼ばれる個人的な価値観や行動方針のことだが、では何を指針とすればよいのか



孟子は簡潔に、「居仁由義」(仁に居て、義に由る)の四文字を掲げる 居場所とは自然環境ではなく人間環境 安宅とは「豪邸」でも「億ション」でもなく、「情緒的納得」 無辜たちを見捨てないこと これが人の行くべき正路「道」   



「仁」とは無辜に対する無条件の庇護への衝動 まさに井に落ようとしている嬰児に、思わず駆け寄って抱きとめようとする行動が「義」 わが子を見殺しにした母親は、変質者でないかぎり発狂する 「仁」とは惻隠の情 「義」は人の正路() これを踏み外さないかぎり、何を憂え、何を怖れる ▲▲



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