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行動文化(74) 天、地、人 

 

垂直思考と情緒的納得  

 「安心立命」という言葉がある 立命館大学の「立命」 意味は天命に対する最終的な納得、つまりおのれの天分への「情緒的納得」 数学の「正解」もこれ 人の行動は、情緒的不満に始まり、情緒的な納得と満足を得て終息する



アメリカの科学思想家バックミンスター・フラーは、「宇宙の諸力は最終的な安定に向かって働いている」と断じ、その最終的な安定を「三角形」とした 



ニューヨークの街角で乗用車を、静止状態のままでの歩道側への幅寄せや、真後ろへ180度の方向転換をしてみせて警官に眼をこすらせたフラーである  



このフラーの運動論を人の行動論に置き換えれば、我々の行動とはすべて「情緒的納得と満足」という最終的な安定に向かっているのだといえる この最終的な納得を古人は、「安神()立命」と名付けた



 「安心」はともかく、立命の「立」とは、天、地、人を一貫する垂直思考の文字である 水平思考には、「横死」はあるが「立命」はない 人は天と地との間に両足を踏ん張ってスックと立つからこそ人 諸兄姉、この「人」という字を見たまえ 我々が足を踏ん張って立っている姿(象形) だ 科学とは水平思考の作業 「立命」には届かない



 



 「安心立命」は、水平思考ではムリ



ところが、これに横町の隠居が「待った」をかける 



「そうではない 人は一人では生きられん 支え合ってこそ生きていられるのじゃ 「人」とはな、一人では生きられん者が支え合うておる姿じゃ」



世太郎や八五郎なら感心して聴いてるだろうが、この式の説教にはいま、小学生でも異議を唱える 「じいちゃんよう なにもムリして立ってなくったって、しゃがんでりゃいいじゃん」 これだから横町の心学の隠居もやりづらい むろん、しゃがんでたっていい ついでにいっそ、寝そべっちゃどうだい ラクチンでいいぜ 



だが寝そべっていては、空は見えるが「天」は見えない うつ伏せていては土や石ころは見えるが「大地」は見えない つまり天文学者や地質学者にはなれるだろうが、それは科学者の水平思考 天体望遠鏡や電子顕微鏡では、「天」も「地」も視野には入ってこない 動物の一種としての「ヒト」は見えるだろうが「人」は見えない 「人」を見るには科学の水平思考では無理 安心立命には、分析主義や進歩主義の眼鏡を、天・地・人の縦軸が視野に入る垂直思考の眼鏡に取り換える必要があるが、戦後民主主義で地ならしされ、アナログ思考はデジタル思考に駆逐されて、「垂直思考」は今はやらない 人は孤児 ▲▲
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行動文化 (73)  活人剣「無事故武道」(9) 

畳水練、という言葉がある 水中ではなく畳の上で泳ぎ方の訓練をすることをいう 畳の上で投げ技を稽古することを皮肉っているのではない 柔道の投げ技は武道場の畳の上がいい ここへ「畳水練」を持ち出したのは、実人生では武道の技はそのままの形では使えないという意味 
むろん畳水練にも、スポーツとしてならそれなりの意味もある ケガOKならばの話だが、しかしスポーツはあくまでもスポーツ 武道ではない 
朝日紙の「天声人語」(2011・9・2)では、「突然襲う地震が背後からの辻斬りなら、台風は前から迫る袈裟懸けの一太刀だろうか」と面白い見方をしていた わが意を得たり 来期からの中学校での「武道必修」に対する小生の「ケガゼロ武道を学校へ」や、「活人剣「無事故武道」の提案もまさにここへ的を絞ったもの 問題意識も方法論もまったく同じ 小生これを「武道行動学」として発表している 柔道や剣道、相撲の技がそのままの形で実人生に役立つわけではない 必要なことは武道の心得を実人生に置き換える知力 背後からの辻斬りを地震になぞらえ、正面からの袈裟斬りを台風に置き換えるイマジネーション 2011年の我々に必要なのは、体力や腕力の運用としての武道ではなく、人の特性である「知力」の運用としての武道なのだ

健全な精神は健全な肉体にやどる?
やどらないね これはたぶん宿ることにしたい連中の希望観測 そうでないというのなら、駅などで見かけるトレーナーを着たゴリラたちのどこに「健全な精神」が宿っているか? 中学時代の体育教師の記憶だが、広く厚い肩の上に乗っているのはピーマン頭、その口から「けだし○△、けだし△○」という言葉が連発されていた この先生、「ただし」や「しかしながら」を教養人は「けだし」というのだと思い込んでいた 大型電柱のような腕と足だった 
「道徳度テスト」なるものがある 音量計を持った教師が100メートル先に立っている 生徒がこっちから大声で「オハヨーゴザイマス!」これを何回もくりかえさせる アイサツの声の大きさで道徳度が計れるのだそうだ 
イヤミついでに、もう一つ 久しぶりに立ち寄った母校○△高校の武道場 入
ってってみると、壁に何か書いて貼ってある ――「筋肉は使わないと退化する」――なあにを云うちょるかこのバカども そばにあったマジックペンで、「筋肉」を消してとなりに「アタマ」と書いて帰った 「??誰だいったい――こんなことしたの――」ちょっとした騒ぎになったはずだ ▲▲

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行動文化(72)  活人剣「無事故武道」(8) 

無審判制度(無検証試合) 武道界に、なぜ「審判」を置くのか? ずっと釈然としないものを感じていた 史実を調べていてこの疑念は氷解した 果たせるかな一時期とはいえ、わが国の剣道界にはかつて、無審判制度は存在した 高段位者の試合と、東京帝国大学(東大)系の剣道にこれがあった 
高段者の試合の場合は、教士号保持者以上の模範試合である この場合は「立会人」はつくが表側だけで裏にはつかない 双方抜き合わせて気の満つるを見て、紋服に威儀を正した立会人が白扇を直して床に正座、「拝見」と声をかける  
そして、およそ三太刀の勝負が決したとみて、「よろしゅうございます それまで」と声をかけて試合を終える その間、勝負の判定はいっさい行なわない
 学生剣道では、大正十年発足の東大と京大の定期戦の初期に一時期これを行なっている 「審判」を試合者への非礼と感じる武道人が、やはり武道界の先人方の中にいた この事実を知ったとき、安堵の思いと同時に武道界の現状が思われて、ある種の悲しみを覚えた
 
 剣道界に訣別した第一高等学校剣道部
「無審判」には、武道と競技スポーツのいずれをとるかという根本的な問題がかかわってくる この問題を放置していながら「伝統文化」はなかろう 
そもそも武道の試合とは何なのか? それをスポーツと認識しているというのなら、それもよかろう しかしそれなら「竹刀競技」と呼べ 
 小生も武道人の一人 義務教育への「武道必修」に対しては、期待こそあれ異は唱えない 子供たちは未来を託する国の宝 官民力を合わせて強く賢く育て上げなければならない だが、ものには順序がある 「武道」と呼ぶからには「武」の文字と「道」の文字に、もっとこだわりを持て
学校に武道を持ち込むには必須の条件がある 「文」をそなえた武道でなければならない 審判員に勝負判定をあずけ、スポーツ団体である体協の傘の下に入ることを、恥知らずにも「名誉」かなにかのように思い、本来はテストにすぎぬ試合の成績を最終目的にしてしまうのは「文」なき武 学校武道にはふさわしくない
 東大剣道部の濫觴である第一高等学校撃剣部は、剣道の試合が本来の目的から逸脱して次第に優勝旗争奪のらちもないイベント、すなわち野球と同列の競技スポーツと化してゆくことに絶望して、無検証試合の主唱後まもなく剣道界に訣別している いかにも惜しく、かつ悲しいことだが、記者にはこの訣別が日本武道の終焉であっように思えるのである 清冽な日本武道の泉よ よし涸れよ、濁らんよりは 似もつかぬ競技スポーツとなり果てるよりは――▲▲

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行動文化 (71)  活人剣「無事故武道」(7) 

「検証」と「競技」のちがい
 「検証」とは、正しいか間違っているかの実験である どっちが強いかということではない このさい「正しい」ということは「強い」ということでもあるから結果としては「どっちが強いか」ということにもなるが、しかし「どっちが強いか」は無責任な、野次馬的な関心である 武道とは関係ない
落語に、熊さんが横町の隠居の「ならぬ堪忍するが堪忍」という説教を聴きちがえて、「奈良の神主と駿河の神主がケンカしたらどっちが強えか、おめえ知ってるか?」 と請け売る場面が出てくる これに対して、「そんなこたどーだっていいじゃねえか」ならオトナの反応 「ってやんでえ、それがいちばんでえじなこっちゃねえか」が熊さんの仲間の八っつあん まあ、数からいえばこっちの方が圧倒的多数派 愛嬌はあるが、しかしそれだけのことだ つまり、「武道」と「競技スポーツ」との違いとはこれである
数が多けりゃいいというものではない 数が多いのがいいのならバイキン(ウイルス)の数がいちばん多い 野次馬の興味にピントを合わせるのはスポーツ業者 武道人の背骨とはプライド 野次馬の興味には奉仕しない 覚えておくことだ スポーツ業界の価値観に合わせたら日本武道の根幹が崩れる 数は少ないが、この事を本気で憂慮しているサムライは平成の日本にもいる

 勝負判定は必要か? ――「無検証試合」について
かつて「紳士のスポーツ」であったゴルフには、監視人はいなかった 
ゴルフが監視人を置かなかったのは、他人に監視されるまでもないという紳士のプライドである 
聞くところによれば、今回の「武道必修」は伝統文化に触れさせるのが目的、その伝統に「武士道」を持ち出す者さえいるが、あらためて問う 誇り高く、恥辱に敏感な日本武道の世界に、なぜ「審判制度」があるのか? いつから日本武道は他人に審判される事を恥と思わなくなったのか?
周知のように相撲には「行司」という勝負の仕切り役がつく むろん行司は検査役の代行 行司の判断に疑念があれば「待った」がかかる 
ゴルフにも昔日の面影はない ゴルフはいまスポーツでさえない賞金かせぎの場 誇り高き武道の試合にも「審判」がつく いずこも同じ秋の暮 「伝統文化」をいうのなら「審判」は日本語ではない 
柔道の「教育的指導」 これもおかしい 日本語ではない 指導することを「教育」というのだ 教育的でない指導があるのか おかしいのは「指導」だけではない この指導とは「監視」の産物なのだ 監視されるのは囚人 ▲▲

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