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行動文化 (70)  活人剣 無事故武道 (6)  

(前号につづく)  昔、「那智八十我は九十と恋しけむせめて証しの歌ひとつなれ」などとつまらぬ腰折れを作って、独り悦に入っていたこともあります。言葉はまるで足りませんが、それは野中さんの、「たどりきて太刀をおきたる花野かな」に相当する、僕なりのわが命の原郷への思いでした。
そういう花野からしか何も見えませんですね。花野から見え隠れする世界の眺
望は、しかしまた深い哀しみの遠近を湛えて、たとえば漱石の芸術論の限界と言われるものもそうだと思いますが、僕は滝沢哲学の結構についても色々の思いを喚起させられました。「人生論の場合、客観論を言って見ても始まらない。他人事ではなく、自分自身の問題だからだ。」といわれているところでは、そう、滝沢克己はその自分自身の問題ということに拘り、それを客観的な表現にどうかして成さんと悪戦苦闘したが、そこには方法的無理があると感じさせられもするわけです――(以下省略)   

たどりきて 太刀を置きたる花野かな
以上、文中の、「――花野から見え隠れする世界の眺望は、しかしまた深い哀
しみの遠近を湛えて――云々 請う、村上兄よ 愁人に愁を説きたまうな 身
の置きどころがないではないか 
不肖ながら野中もいま、過去をかえりみて同質の「哀しみ」に胸がふさがる ――祖父母や親を放置して夢ばかりを追った半生、師恩にも酬いず、先輩方の恩義、友人知己の友情への不義理―― 幼い者たち、馬、牛、ニワトリ、山羊、ネコ――無辜を十分に慈しんでやらなかったという思いがいま、数十年の時をへだてて、深い哀しみとなっておのれを責める 
小生は武芸の徒、刀は常に腰間に帯びている 手の内を鍛えるために青竹を試し斬りにする しかし竹を斬りながら、「おれはいったい何をやっているんだ?」と思うことがある ――レンゲ草やタンポポ、スミレの花野に試し切りの刀を置いて、過去を振り返り、おのれの手を眺める 罪深いおのれの、この両手――誓うべき時が来たようだ この手、この剣、決して人を斬る技を鍛えることには使わない 

武道とは ひとに斬られずひと斬らず 弱きを護るもののふの道  日文 

文を離れない武 武を離れない文 野中日文の剣は、無事故武道の「活人剣」
として少年たちに伝えておきたい 神武不殺 国を治むるになんぞ「殺」を用いん 斬られず、斬らず、共存の剣こそ学校武道 ▲▲ 
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行動文化 (69)  活人剣 「無事故武道」(5) 

(前号につづく)「武道とは何か」という問いかけに、武道家もなかなか答えられない。もちろん記者も答えられない。ただこの本を読んで武道が持つ無限の可能性を感じた。素晴らしい行動指針だ。先駆者が残した珠玉の名言に新しい光を当てた価値も大きい。この本を出版した創言社の村上一朗社長は「西洋思想の限界を破る、読みやすい日本の思想書。シャープで普遍的な良書だと思った」と刊行に踏み切った動機を話している。柔道指導者必読の一冊だと感じた。(徳) ※四六版318ページ 定価2500円(税別) 問い合わせと申込先 〒813-0031 福岡市東区八田2-14-2 創言社 電話092-673-4111

 現代の迷信 
小著『「バカの壁」に異議あり』(文藝書房)を、哲学書専門の出版社である創言社の村上さんに贈ったときの答礼文がある 
村上氏は上記の小著『武道――日本人の行動学』を世に出してくれた創言社の社主だが、ペンを持つ人としての村上氏は著名な哲学者 この答礼が犀利な文明評論になっているのは当然としても、ご覧のように文学の香気をまとった名文もこんな形でそのペン先からは生れる 私信だが私するには勿体ない これ、書評として使わせてもらって宜しいかときいたら「構わん」 ここに紹介する

 ――まことに全編仰せのとおりで、心に快哉を叫びながら拝読いたしました。細部に亘る完膚なきまでのご批判展開と第二部の大らかな、何時もの野中節を拝聴しまして、また久しぶりに日頃の溜飲の下がる思いでした。
 科学的思考とか論理的整合性というような現代の迷信は、一定の部分的な有効性は認めるとしても根本的には、仰るように存在の機微ということが等閑に付され、事実そのものを捉えるということは出来そうもありませんですね。単なるおしゃべりか為にするイデオロギー以上のものにはどうしてもならない、と言うかそもそも関心の角度が違う、人間を考察する方法とはならないばかりか、事実への関心を殺ぐことにしか役立たないと思えます。
 孟子の王道論の面白さや礼の本義、倫理と戦理の同根性、その他至るところ啓発され頷きながら読了させて頂きましたが、那智への言及へも一入感慨深いものがありました。というのが戦後間もなくの子供の頃、宮崎の三財に移る直前、暫く那智勝浦に住んだことがあり、よく遊びにも行った馴染み深い滝だったからでもありますが、僕のイメージ通りの那智が描かれていました。(つづく)

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行動文化 (68)  活人剣 「無事故武道」 (4) 

投げず投げられず、斬らず斬られず
誰も傷つかない共存の武道 こんな武道が義務教育の現場にはふさわしい
「活人剣」とは周知のように「殺人刀」に対するもので、相手を動きたいよう
に動かせながら斬る太刀筋をいうわけですが、無事故武道に古風な「活人剣」を持ち出したのは、投げず投げられず、斬らず斬られず、「共存」を掲げるケガゼロの「無事故武道」を「活人剣」に通ずると見るまでのこと そのほかに特に仔細はありません 先人の偉業を前にして、おこがましいといえば無論おこがましい命名ですが、しかし「平和共存」へ向かう活人剣の運用こそは現代武道の理想ではないでしょうか 
そもそも、ここに掲げる「無事故武道」とは、「剣」を持たない日常生活の場での、投げ技や打突の技を離れた、無刀の動きのことです
剣を捨てたということは、争わない、斬らない、殺さないという意思表示 「戦争放棄」との違いは、「知力」即ち「外交力」を火力戦の上に置くことです 弱者の悲鳴としての戦争反対ではなく、強いからこそ可能になる、弱者を護るための不戦論、その実践が「無事故武道」です 力とは武道場の中での強いか弱いかではない つまり「腕力」でも「暴力」でもなく「政治力」 争いを避けるための知恵 この主張は子供たちの知的好奇心を呼び覚ます本当の「知育」
 省みれば、学校武道に対する我々の提言には二十数年の歴史があります 急に思いついた主張ではありません しかし今日まで残念ながら不発でした 時代のせいにするのは簡単ですが、弁解無用 理由は野中日文の力不足です 小著『武道――日本人の行動学』もこの「不発」組に入りますが、最近少し風向きが変わった 書評をもう一つ紹介しておきましょう 書評の仕方は各人各様 しかしこんなふうにいくつか並べてみると、小著の内容が立体的に立ち上がってきます 以下は柔道新聞(平成1・10・10) 所載のものですが、この評者、ご覧のようになかなかの知性派
 柔道指導者必読の一冊 「世紀末の混沌とした社会情勢の中で日本および日本人はどのような誇りと行動基準をもてばよいのか。何処に向かってどう生き抜けば良いのか。これらに明快な指針を示せるとしたら日本武道の精神と技の復活しかない…」九州宮崎の武道家・野中日文氏が「月刊武道」(日本武道館発行)に長期連載して好評を博した「武道の実用性と実益」に、大幅な加筆訂正を加えた会心の一冊が誕生した。〃武道の効用を説き、教育、文化への根本的・方法的提起をなす〃 という宣伝文は如何にも堅いが、中身は次々に身近かの話題をテーマにしながら話すような柔らかい文章で分かりやすい。しかし説得力は凄い。(つづく)

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行動文化 (67)  活人剣 無事故武道 (3) 

本音の武道論 日本武道館の『月刊武道』誌に、二年間にわたって書かせてもらった連載記事があります のちに内容を整理しなおして創言社から『武道―日本人の行動学』として発刊しましたが、これを担当の編集者であった吉野さんが日本武道館の『月刊武道』誌に紹介してくれた紹介文です いま、来春からの中学校の「武道必修」に合わせて「無事故(ケガゼロ)武道」を掲げていますが、小生の意見が他人の眼にはどう映っているかを知るのには恰好の文章ですから、ここへ引用させてもらいます ご本人が編集の任に当たった記事ですから多少の仲人口の匂いはありますが、執筆者としてはまあ、公平に見て的を外しているとは思いません 以下のようなものです 

本誌に連載され好評を博した野中日文著「現代における武道の実用性と実益」が単行本になった。武道の原点は「自己保全」の道、その根源的な欲求から出発し、武道は万類万生とともに生きる「道」となり、「信」と「愛」の世界へゆきつくと、その道筋を解き明かす。過酷な状況を生き抜き、事を成就に導く行動学として、先人たちが伝えた武道の心得を「武道行動学」として現代に甦らせた好著。「武道修行の目的」「生き抜く力」「天地の法則、自然の道理」「理則術」「守・破・離」等々、武道における悟道の構造が明快に示された本音の武道論、これは痛快である。本書は武道指導者はもとより、教育関係者必読必携の書である。ぜひ熟読玩味されることをお薦めする。
(創言社発行 本体2500円+税 問合せ先 092・673・4111 または03・5355・4821)  

上記の小著については、以上とは別に創言社主 村上一朗氏本人が、日本武道館の『月刊武道』に出した、次のような自筆の推薦文があります 

「本誌『月刊武道』に連載され好評を博した野中武道論の白眉! 世紀の転換期・現代によみがえる日本武道の精神と技法! 武道の効用、その技と言葉は時代を生き抜く力である。人間性回復の捷径、教育・文化への根本的・方法的提起。闊達、明快な本論! 武道とは何か――生きる力と武道、「名人」と「達人」、武と文、学校武道の要諦、日本武道の本質 あるいは、挨拶と間積もり、間合いと対人関係、見切り、居着き、いじめ、作法、東洋と西洋、日本の名誉の最後の砦――等々  以上 (問い合わせ先は上に同じ) 
――――――――――――――――――――――――――――――
この小著、売れ行きは芳しくなく時代の壁を感じたが、最近ようやく導火線に
火がついたようだ 日本武道の名誉のために同志各位のお力添えを乞う 

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行動文化 (66)  活人剣「無事故」武道 (2) 

君子不器  人とは「知」の生き物です 人とサルとの違いとは、「言葉」が使えるかどうかです 人から「識見」を取り去ったら何が残る? 朝、昼、晩、ただ食っては出し、食っては出しの「飯袋」しか残らない 
武道人にもいろいろいるが、ただ人を投げたり斬ったりすることしか知らず『孫子』も『蔚繚子』も読みこなせないのでは、腰の両刀とはただの「人斬り包丁」、頭は空っぽ 義務教育の現場で子供たちに伝えられるものなど何も持ってはいない、ただのマッチョ 誰もそんな人間に敬意など払わない
最近実際にあったことだが、都内のある中堅どころの企業で会議の後の講演会を企画した ところが、司会者が、「えー今日の講師は武道家の――」と言ったとたん、集まっていた者の大半がゾロゾロと退出した 出版界のある老練な編集者が言っていた 「タイトルに武道の二文字があるだけで本は売れませんよ」 見くびられたものだ 日本武道、ついにここまで落ちたか
この状況、百年前に予測していた大先輩が二人いる 一人は剣道の内藤高治、もう一人は柔道 講道館の嘉納治五郎 内藤高治は明治期の御前試合の企画に、剣道人としてただ一人異を唱えた人物 「剣道の真義に反する」がその主張 だが「天皇のご意思である」の一言で押し切られた 帰宅して、ポツリとつぶやいたという 「これで日本剣道は滅びた」 その胸中やいかに―― 
かたや柔道の嘉納治五郎 講道館柔道を定義づけて、「精力善用自他共栄の道」とした それは武道ではなく経済論だとの批判もある 経済論結構 小生の勝手な推測だが、その胸中には「武士の表芸としての武芸の役割は、もう終わった 世はすでに火力戦と政治力の時代だ」という思いがあったはずだ
柔術の世界には「講道館の足」という言葉が残っている 講道館が他流に怖れられたのは切れ味鋭い小内刈り、大内刈り、大外刈り、送り足払いなどの絶妙な足技だが、記者も高校時代にこの講道館流の足技を学ぶ機会に恵まれた  
古伝そのままの足技の使い手、森 犢(こうし)という大先輩が、郷里秋月藩、日向の高鍋にいた 
柔道は記者の古巣 懐かしい記憶は数えきれない スポーツとしての運用もたしかに一つの立場 否定はしない 小生、ケガで行き詰まった 親愛なる柔道界の後輩諸兄に伝えたい 悪い事は云わぬ 「政治力」を身につけておけ 相手もあろうに、のちには柔道を捨てるヘーシンクなどにむざむざと名を成さしめた 勝ってもともとの勝負なのだ てこずるだけでも日本柔道には傷がつく相手 古人はそんな勝負はしなかったよ 道衣の色分けも、向こうのペースで押し切られたのはやはり敗北 勝負判定の基準も同じ 世界の、ではなく「日本伝講道館柔道」なのだ こっちの領分に土足で踏み込ませるな ▲▲

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