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行動文化 (65)  活人剣 「無事故武道」 (1) 

 「文武両道」の誤用

「文武両道」の使われ方について、法政大学教授 川成 洋氏の直言がある 


図書新聞(200123)に、小著『武道―日本人の行動学』の書評の形で発表されたものだが、孤立無援と思っていた小生の仕事に対しては、決して無関心や批判意見だけではなく、このような同憂の士もあることを知って、意を強くした 以下に紹介して謝意に代えたい


 


ほんの数年前のこと。夏の甲子園野球大会で優勝した高校の校長は、わが校は「文武両道」を教育の根幹にしており、事実、東大には百人以上の生徒を合格させている、と豪語した。本当かね、これ、と思ったのは、おそらく私ひとりではあるまい。後でわかったのだが、たしかにこの高校では、野球以外にもサッカーも全国制覇し、東大も百人以上合格させているが、スポーツをする生徒と受験勉強に専念する生徒を峻別して教育しているのだ。なんのことはない、「脳ミソまで筋肉化した生徒」と「青白い頭デッカチのもやし生徒」に二極分化した高校にすぎないのだ。それを天下のNHKテレビで「文武両道」と宣う、こういうペテン師のごとき厚顔無恥の学校屋がいるかぎり、日本の教育は絶対によくならない。――中略――こうした悪しき「体育会」的伝統が果てしなく続き、知性なき競技者(※アスリート 筆者注) を量産しているが、「武道」もしっかりこの中にしっかりと組み込まれている。ことほどさように、現在の日本の教育界の中には、残念ながら、真の意味での「武道」は存在していないのである。


こうした嘆かわしい現実を踏まえて、「学校武道」として「武道再評価」を提言している本書は、「武道のスポーツ化」から「武道の武術化」へと大きく方向転換すべきだと述べている。「武道」とは本来、試合競技のためのものではなく、利害対立する世界で、自滅を避け、護るべき者を護る智慧と、動き方の原理、および行動力をいうのである――中略――実技として、まず「間積り」、「見切り」さらに「居着き」「位どり」へと続く――礼により始まり礼により終わる、状況判断を自分で決定する、結果責任を自分で負うといった自立した行動を基本的な行動原理とする「学校武道」を、混迷と彷徨を続ける学校教育の中に、しっかりと位置づけねばならない、と本書は主張している。この主張が、現在、学校関係者や「武道」関係者の心にどの程度銘記されるのだろうか、と危惧を表明せざるを得ないのも、「武道」を続けている私の率直な印象でもある。


以上、同憂の士川成教授の存在は心強いが、小生、坐視はできない 気負った言い方になるがこれは小生にとっては「死に花」を咲かせる仕事なのだ▲▲

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行動文化 (64) スポーツ武道は「伝統文化」ではない   

 いま、なぜ「武道必修」なのか?

来年から、全国の中学校で「武道」が必修科目になる 武道界は軒並みにわが世の春と思っているようだが――どうも腑に落ちないことがある


ここへきて、いまなぜ武道必修なのか? 当局は武道にいったい何を期待しているのか? そこがどうもよくわからん 


今回の武道必修の目的は「わが国古来の伝統文化」の体験だという 記者の専門分野は行動文化だが、伺いたいのは武道のどの部分がどんなふうに伝統文化なのか? 「柔道文化」、「剣道文化」とはどのようなものなのか? 今回の義務教育の場への「武道必修」にあたって小生、説得力のある意見にはまだ出会わない 武道の「道」とは抽象概念、視点を変えれば「行動文化」、具体的には「柔道」であり「剣道」 つまり人を投げたり斬ったりする事である そこまではよい だが、ここでハタと行き詰まる 軍隊でも自衛隊でもない2011年の中学校で、なぜ子供たちに人を斬ったり、投げ飛ばしたり、取り抑えたりする技術を学ばせなければならないのか? 護身術としての必修なら解らなくはないが、しかし現代の武道はすでに実戦を離れて競技スポーツになっている  


 


スポーツ武道は伝統文化か? 


だが困った事に、古来の伝統文化としての武道は「競技スポーツ」ではない 「伝統文化」とおっしゃるが、武道が「スポーツ」になってしまったのは戦後のことである 知らなかったとは言わせない 昭和初期から敗戦までは、武道とは米英撃滅 国に仇なす外敵を殲滅するための戦闘技術 さらに遡れば、わが国の中世とは刀槍の時代、その形が示すように刀とは人を斬る道具、槍とは人を刺す道具である 歴史を通観していったいどの時代の武術を「伝統文化」とおっしゃるのか? 今回の武道必修は、必ずしも戦闘術や競技スポーツとしての教育ではなく、本来の日本武道が持っていた精神文化を、文化遺産の一つとして学校教育に採用しようということなら話は別 行動文化の研究者として異論はない だが、それならそれでその貴重な文化遺産を、具体的にはどんな形で中等教育に織り込もうとお考えなのか? 小生、教育界が道徳教育に舵を切った直後、○△県の教育委員会にライフワークとしての武道教育論を、発刊の都度合計10冊、慎んで寄贈した 結果は10冊すべて没収廃棄 寄贈者の抗議に対しても無視 礼状はおろか受領記録さえない 訊くと教育次長、「そんなものいちいち記帳できません」 これが「道徳教育」の現場の実態


だが○△県教委の人事配置も当時とは変わった 協力の要請があれば労を惜しまない 教委のためにではない 次代の日本を背負う子供たちのために

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行動文化 (63)  自由 

 自由とは「自分勝手」ということである 自分勝手とは「放縦」ということである

この解釈でよろしい この解釈でなんの問題もない というよりも、こう解釈しておくのでないとゆるぎなき主体性は育たぬ


「自由」はよいが、勝手気ままはいかん 責任を忘れない自由はよいが「放縦」はいかん いかんものはいかん――うるさい ちょっと黙っとれ


差し出がましいんだよお前さん 口の利き方に気をつけたほうがいい


手錠つきの囚人の散歩じゃあるまいし、そんな事ぐらい自律できるように育てるのが人を育てる「教育」ということじゃないのか


お前さん近思録を読んだか? 宋代の論語と呼ばれる朱子学の教科書だ


――その様子では読んでないな 自由とフリーダムの違いぐらい小学校で覚えとけ ところがその小学校でだ いま英語に力を入れている 


順序が逆だ まず国語だよ


英語はアングロサクソンの言葉だ 彼等は英語でものを感じ、考え、動く 我々は日本語でものを感じ、かつ考え、行動し、結果を出すのだ どの民族の


場合も、国語とはただの道具ではない 民族の魂 さればこそ、わが国では短歌を「ことたま(言魂)のまことの道」と呼んできた 


過去には侵略戦争で世界制覇を企てたとされる日本人だが、これは買いかぶ


りである 事実に反する 日本人はそれほどタフではない 皇室の歌会はじめで新年を迎える、線の細い、みやびな人種なのだ 腕づくの欧米のアジア支配に反抗したのは当然だが、しかし戦争向きにはできていない アメリカに最後通牒ハルノ―トをつきつけられて、怯えた 怯えて真珠湾につっこんだ アメリカは「しめた!」と喜んだ 勝ち目のない戦争をはじめ、国を滅ぼした


「彼を知り我を知る」は勝負の鉄則 英語を学ぶなとはいわないが、我々は英


語よりも、繊細で陰影に富み格調のある日本語が先ではないのか 短歌だ 


――癇癪(カンシャク)で筆が流れた 「自由」の話だった 自由、という言葉


の出典は朱子学である みずか()らによ()ると読む 自主性、自律の謂いである フリーダムじゃないぜ 囚人じゃあるまいし いうならフリーダムよりも、リバティかマイウェイだろう 五十年前の、北鎌倉の円覚寺の夏期講座を思い出した 鈴木大拙の「自由」についての講話があった 何々からの自由という自由理解を「囚人の自由だ」と指摘した 鈴木大拙は欧米へ禅を紹介した人だが、戦後民主主義批判の舌鋒で「平等」にも言及した 平等とは総論 平等の各論とは差別である その次元差の見えないのが水平思考 言い換えれば単細胞 餌しか見えないサル―― おっと、またカンシャク 今夜はここまで

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行動文化 (62) 柔道界余聞 

 ハマの三四郎と昭和の武蔵の勝負

駒井五段は宮城県の人で、名は五郎 体は柔道家としてはそう大きいほうではなかったが、好男子というよりは色白の美男 遊びに行ったとき二〇歳ごろの写真を一枚もらったが、久留米がすりの着物に小倉の袴でニコッと笑って立っている姿は、見る者の誰もが「ほう!」というほどのものだった 記者の柔道はこの人とともにある


怒った顔を見たことのない春風駘蕩、横浜に住んでいて、「春風に乗ったように柔らかくゆったり歩くハマの三四郎」と新聞に書かれたことがある


余談にわたるが、ついで書いておく


当時の柔道界はいわゆる醍醐・吉松時代 駒井五段も全国制覇を視野に入れる位置にいた その強豪吉松に、酒席で移り腰の駒井五段がイビられたという話がある あるとき駒井さんが記者にボヤいたのである 


京の料亭で柔道人の会合があった この料亭の座敷でのこと 仲居や芸者衆が駒井先輩のまわりに集まって、みんな動こうとしない 吉松が自分のところへ呼び寄せてもすぐ駒井のところへ行ってしまう


しかしまあこれは致し方なかろう 吉松さんも快男児だが、しかし駒井さんと並べたときの感じは、言ってみれば新撰組の近藤勇、駒井先輩は土方歳三、この座敷では女たちは土方歳三のまわりに群がった ほっとかれりゃ武蔵も面白くない で、この一件以来、逢う度ごとに、「駒井! きさまあ!」と凄い目付でにらむ 「まんざら冗談とも思えないんだよ」と駒井さん、こぼしていた


 


この鹿児島の強豪吉松を、記者の郷里の先輩である柄本(のち長友)さんが全国大会で討ち取って柔道界に覇を唱えたわけだが、記者自身の柔道は当代一流の先輩方の指導を受けながら無理な稽古で体をこわして行き詰まり、先人方の恩義にも酬いることなく、柔道界を去った 青春の蹉跌 


ともあれ柄本先輩は本舞台で昭和の武蔵を討ち取り、また京の料亭では駒井先輩が、男ぶりでこの武蔵をうち負かした 記者、この二人を大先輩に持つことを誇りに思う 


ついでながら、この場を借りてメビウス気流法の坪井香譲兄に一言いっておく 小生を紹介してくれるのに、夜の盛り場で五人の暴漢を川へ放り込んだとか、やれ笛をたしなみ、書画の筆をとれば云々――そんなゴミみたいな事はど―でもよい なにか忘れちゃあいませんか? 書いてくれるなら野中は東京時代、当時の合気会本部道場の美男第一で、出会う美女たちの視線をいつも一身に集めていたと、いちばん大事なことを忘れずに書いてもらいたい 

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