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 行動文化 (号外4) 「ケガゼロ武道」を学校へ 

 武術とは殺傷の術 はっきりいえば、「いかに効率的に敵を斃すか」 これが武術です 刀や槍はそのための道具 折れず、曲がらず、よく切れるのが条件 

 ダイナマイトの開発で、「これで地上から戦争はなくなる」と思われた 


しかし終わらなかった 核爆弾が登場した 人為的に地震や暴風雨などの自然災害を起こさせる技術が開発されつつあるという 猛毒をもつ病原菌の開発もこの線上のものだ


 幕末の行動家たちは、銃器の登場で、「これで一刀流も柳生新影流もなくなるな」と思った 武士に代わって、銃を担いだ「兵士」が戦場の主役になった


 しかし武道界にもさまざまなタイプの人がいます


 合気道の開祖植芝盛平は槍の使い手、その極意とされる「三角法」とは槍術の動きです その植芝盛平は「殺傷の術」であった従来の武術を、「愛と和合」の武道、人の身心を浄化するための「みそぎの武道」に変身させ、二代目の植芝吉祥丸はこれを「君子の武道」と認識させることに、半ば成功した 完成したとは思っていないが、ともあれ合気道は人殺しの武道ではない 二人とも門人である我々に後事を託して世を去った 


 


 斬れるところを斬らず、突けるところを突かずに体が入る


 これを合気道では「入り身」と呼びます  「三角法の秘奥に達したら拳銃のタマも当たらんでぇ!」と叫んだ、在りし日の師の姿が目に浮かぶ


 合気道は肉体の武道ではない 気の武道です 相手の体の動きでなく気の動きにピントを合わせる つまり体術というよりも、動きの本質は剣と槍です


 晩年の植芝盛平は「構え」を捨てた 相手を「見るな」とも云った 対立も敵対もするなと教えた


 「平常無敵流」という剣の流派がある 相手が斬りかかってこぬかぎり、こっちからは決してしかけない 知らん顔をしている 一撃で倒せると思って仕掛けたとたんに地面に這わせられる 「敵対心」や「闘争心」が自分の墓穴をほるわけです 「先手必勝」というが、しかし片方には「空手に先手なし」という言葉も残っている このあたりが武道の面白いところなのであって、とり憑かれるとケガなど問題ではなくなる 記者自身がずっとこれだ 身貧にして貧を知らず、てなことになる ガソリン代もない日がある 女房は亭主をえらびそこねた そのことをいうと、「あたし眼が悪かったの」もうおそい、と 


 悪い事はいわぬ 貧乏とケガがイヤなら武道などはじめないことだ 中学生諸君、「必修」とあれば是非もないが、「ケガゼロ武道」がいいよ 先生方もね


「ケガゼロ武道指導要録」を用意している どうやるのか、みんな書いてある

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行動文化(号外 3) 「ケガゼロ武道」を学校へ 

 「武道場無用」は暴論か?

 武道の練習は武道場で行なうもの、という考え方はごく最近のものです 武道場での勝負とは「競技スポーツ」になってしまってからのものです 


本来、武道の勝負とは命がけのもの それは現代では武道場の外にあります 個人にせよ、組織にせよ、生き抜くことは決してきれいごとではなく生存競争、


文字通りの命がけの仕事であることは皆さん、よく御存じのとおり この部分にピントを合わせたとき、柔道の「大外刈り」や「一本背負い」には何の関係もありません つまり武道場の勝負での強いか弱いかには、小指の先ほどの値打ちもありません 虎やオオカミの爪や牙にあたるものが我々の「知力」です


 


武道の勝負とは、つねに「いま」の「この場」 


 つまり武道の場合、「鍛練の場」も「真剣勝負の場」もつねに自分が身を置いている「いま」の「この場」 いま、この電話で、自分はどんな声でどんな応対をしているか ということです この事実から眼をそらしたのでは、すべてが「よそ事」になってしまう スポーツならそれでもいいでしょうが、武道は命のかかった真剣勝負です 鞘走りより口走り 武道の「平常心」の心得を日常の言動に置き換えた場合、それはたとえば次のような態度になります 


セカセカしない イライラしない ムカつかない その場の気分で物を言わない 他人の意見には、相手が誰であれ「予断」をもたず、終わりまで虚心坦懐に聴く 聞いたあとも 受け取り違いをしていないかどうか確認 言葉を選び、語気に気をつける 云った事には責任をもつ


これを「情報処理」の場面に置き換えると、


情報としての価値は、あくまでもその内容にある 誰がもたらした情報かは無関係 つまり常任理事の意見が有益で通行人の言葉が無価値とはかぎらない 


気に入るかどうかも基準にはならない 情報の価値はむしろ「気に入らない情報」、つまり自分にとっては都合の悪い情報にこそある 


以上で武道場無用論の真意はおわかり頂けたと思いますが、勝負の心得は、


孫子のいう「彼を知り、我を知る」につきます 日本はこの鉄則を踏み外したために太平洋戦争で父祖伝来の国を滅ぼした 個人のレベルで考えてもこれは同じ事です 予断、つまり相手への「たかくくり」や「みくびり」、自分への「うぬぼれ」で人はつまづく 武道の視点からは「自分大好き」ではダメ ホメ言葉が人をダメにする むしろ非難中傷、悪口雑言、罵詈讒謗が人を鍛え、育てる 可愛い子には旅をさせよ 世間こそが道場 問題は指導者の能力 そのための『学校武道指導要録』です 活用して下さい ほぼ書き上げました

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 行動文化 (号外2) 「ケガゼロ武道」を学校へ  

 平常心 学校武道の場合、まず「感情衝動の制御」から入る つまりよく知られている「自然体」や「不動心」、「平常心」の心得 これは体の技ではなく心の技だから普通の教室で十分 机も椅子もかたづける必要はない いますぐでも始められる武道教育です しかも本物の

 感情衝動とは、イライラ むかつく 拗()ねる ふてくされる ひがむ おもねる 甘ったれる たかぶる 浮かれる 調子づく 図にのる 威張る えこひいき うぬぼれる みくびる 怖れる すくむ といった類の一方に偏った意識状態をさす これらのもののすべてを無くした意識状態が「剣体」とよばれる身心の状態だが、しかしこんな言葉を連ねながら思う なんと人間らしい、なんと愛らしい、なんと豊かな――なろうことならこのままにしておきたい感情表現――しかし武道ではこれらを「心病」と呼ぶ これが敗因になる 崩れない心が平常心 可愛気はないが武道の場合、平常心とは勝つための心得  


崩れない相手をどう崩すかが攻略法 武道人ならみなそれぞれの崩し方を持っている 面白いですね 崩されずに相手を崩す こんな不道徳な振る舞いはない まさにエゴ 煮ても焼いても食えない武芸者根性 


 それはそうでしょうよ 崩れたのでは命にかかわる やさしさ、いたわり、思いやりなどとは話がちがう だが視点を変えれば、これこそが「免疫力」に通ずる天が生き物に与えた自己保全の本能 この部分から眼をそらしたのでは、すべてがウソになる ♪ひとに勝つより自分に勝てと いわれた言葉が胸にしむ つらい修行と弱音を吐くな 月が笑うぞ三四郎


 


平常心の調え方


 感情衝動は必ず身体的な表現をともなう 身体言語(ボディラングェージ)もこれだが、病理としてはイライラは胃壁をいため、カンシャクは肝臓をいためる セリエのストレス説がこれ その感情衝動をどうコントロールするか 精神安定剤の処方は病院の仕事 武道では、いますぐこの場でできるのが、姿勢、表情、呼吸、声を調え、言葉をえらぶこと 外形が調えば内面(感情)が調ってくる 悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいという構造がある ためしに、口をとがらせてごらんあれ なんだか気に入らぬ、他人に突っかかりたい気持ちになるでしょう 我々の身心はこんなふうにできているのです


 武道とは体の技である以上に心の技 「文」を離れない武 「武」を離れない文 これが文武両道 「文」専門、「武」専門の2コースをもつ学校とは偏向教育 これで「わが校は文武両道の学校」は詐欺に等しい自滅への道 これでは子供たちを教育することにはならない 子供たちを見くびらないことです 

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 行動文化 号外(1) 「ケガゼロ武道」を学校へ 

 トレーナーを着たゴリラを育てないために 

ケガはゼロにできる 学校には武道場など、ないほうがよい


 中学12年生の授業で来年度から「武道」が必修科目になる 危ない


 名古屋大学の内田良準教授の調査によれば、学校武道で1983年以降114件の死亡事故が発生している 最近では体育の授業中のケガで1640万円の損害賠償を命ずる判決が722日に出た


保護者たちによる「全国柔道事故被害者の会」という組織ができている 学校としては国の方針とあれば従うしかないのだろうが、親たちとしては子供にケガをさせたのでは育てたことにはならない 学校も預かっている子供たちに事故がおきたら、詫びてすむことではない いじめ事故に加えて武道の授業中の事故まで背負い込むことになるわけだから校長さんたちも気は重いはずだ 


 ケガをさせないように指導しろと国はいうが、小生は子供のころからの武道人生である 武道にケガはつきもの、とくに柔道はそうだ 小生、打ち身、捻挫、脱臼、骨折、腰椎の損傷その他で満身創痍の体である 死亡事故以外はみんな体験している そもそも「柔道整復師」という仕事は、ケガが不可避だからこそ成り立つ商売なのだ ではどうするか?


 学校武道の目的とは、優秀な選手を育てることでもなければ、武道各団体の底辺をひろげる事でもない 武道の訓練で少年たちに過酷な時代を生き抜いてゆく力を身につけさせる事のはずだ 


 「文」を離れない武 「武」を離れない文を


 武道とスポーツの境目がはっきりしない時代である 日本武道の原点にもどって考えてみよう 剣術と礼儀は「用心」の裏と表なのだという意見がある 幕末、平戸藩の松浦静山(心形刀流の剣の達人)の言葉である この人はただの剣道屋でもお作法の先生でもなかった 逼迫していた平戸藩の財政をみごとに立て直した有能な政治家 この人が現代の子供たちに剣を教えるとしたら、どんな剣を教えるか? それはハッキリしている 「行動学」に置き換えた剣を教えるにきまっている 「文」を離れない武道の行動学を そうでなかったら松浦静山ではない 平成の学校に武道場など無用 あるからこそ死傷事故が起きる なければ稽古中の事故の起きようがない 武道の行動学? なんだそれは そんなものがあるのか? ある 小生が作った さっきから云っている 「用心」がそれだよ 感情制御、間づもり、位どり、目付け、機眼、見切り、残心――剣の心得で実人生に役立たぬものなどない


 今こそいう 武道を「行動学」に置き換えれば、ケガはゼロ 本物の武道が学べる 就職活動には有利 まもなく「学校武道指導要録」が書き上がる

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行動文化 (61) 道場破り 

 駒井五段(柔道)の大技「移り腰」のこと 

ちと辛気臭い話がつづいた 話題を変えよう 数日前の早朝、くっきりとした夢をみた めずらしく柔道の夢である 若い諸君の前で、記者が十九歳のころに先輩に見せてもらった大技「移り腰」の解説をしていた 記者はそのころ、この駒井五段(当時)に預けられて警察の柔道教師への道を歩いていた 全国から集められた七人ほどの柔・剣道のヒヨコたちが、あのころは同期にいた


合気道にも荒技はある 磯山八段の得意技「巌石落とし」などもその一つだが、往年の駒井五段開発の応用移り腰は、豪快さにもう一つ、相手を文字通り「手玉」にとっているような――なんというか、一種の遊びがあって、芸に遊ぶとはこんな姿を言うのだろうと、そのとき思った


柔道では相手が腰を入れてきた時がチャンスだが、合気道でも入り身ができれば何とでもなる 一教の腕抑えにきた時、または崩しの甘い四方投げには簡単に入れる 豪快な荒技が好みなら合気道の諸兄、試みられよ 相手を後ろから一気にハネ上げて体重がゼロになっている時に腰を入れ替えるのがコツだ   


気分のよろしい大技である ただしこの技で畳へたたきつけられた側の気分の方は別の話


 


ハダシで逃げた道場破り


駒井五段(当時)の技は、大外刈りと膝車で崩して主砲の内股で討ち取るという流れで、この移り腰を試合で見ることはまれだったが、道場破りをこの技で追っ払った話を聞かせてもらっている 


駒井さんの郷里の奥州でのことだったと記憶する 懇意にしている道場から、使いの者が息せききって走ってきた 「体の大きな外人の柔道家が入り込んで仲間たちをなぶりものにしています、はやく来て下さい!」 「お、そうか どれどれ」 行ってみると、大きな、ごつい奴だが、体力まかせの技 退屈していたところだ、ちょっと懲らしめてやろう 道衣に着替えて相手をした


しかけてくるのを適当にあしらって、腰を寄せてきたところを後ろから抱えてハネ上げ、駒井五段はこれをブランコと呼んでいたが腰を入れ替えて腰の角で派手に一回転させて、思いっきり畳の上へ裏返しにたたきつけた 


こたえたのだろう 目をまわしたのか、すぐには立てずにいるのへ、このあたり駒井先輩も茶目っ気がある、つかみかかる恰好をしてみせると、怯えきった顔をしてこの男、這って玄関へ行くと靴をつかんで裸足のまま後ろも見ずに逃げて行ったという 怯えて逃げるのにも靴を忘れなかっただけエライともいえるが、こんな場面では人はほんとにハダシで逃げるようだ (つづく)

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