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行動文化(39) 人を投げることが上手? ?・「力」とは「知力」 

 人を投げることが上手? ?

 こどものころ柔道の手ほどきをしてもらった大先輩に、先日逝去された京都武専柔道出身の黒木正和師がある 払い腰の名手だったが、晩年、懐旧談として自分の柔道とは結局なんだったのか……よく考えてみると、今でもよくわからんと言っておられた こんな述懐である


 「自分の技は当時そこそこには切れたから、秋田の何某、福岡の何某と名のある柔道屋を相手にしても勝負にはなった 敗れることもあったが強敵を裏返しにして畳に叩きつけることもあった そんな日常が楽しくないということはなかった だがなあ――ときどき思うんだよ おれはこうして人を投げることができる 名も全国の柔道界には知られた しかしよく考えてみると、こんなふうに人をつかまえて投げることが上手という事にいったい、どんな値打ちがあるのだ?? と、ときどき考え込んでしまうことがあったよ」


この話を高校時代の、禅の手ほどきをしてもらった恩師に語ったところ、師は腹をかかえて爆笑した 師の価値観のどこかをくすぐったらしい


 


「力」とは「知力」


小生の場合、中学に上がってもいくじなし 小学生たちにいじめられて泣きながら帰るという日常 女の子たちからさえバカにされた 


まず、強くなりたかった 男は強くないとだめだ で、柔道 


高校ではそれなりに力はついた だが上京してみると所詮は田舎柔道 強い奴はいくらでもいる 


その頃から「力」とは何かと考えるようになった そして結論が出た 


「力」とは人の場合、「知力」である その中で人を投げたり、突いたり、斬ったりできる能力にはいま、言っちゃあ悪いが小指の先ほどの価値もない 


武術が好きでたまらんのならそんな生涯もあってよかろう だが、ただ人を投げる事だけしかできない者は結局、観客の娯楽に奉仕させられ、勝負の内容にまで土足で踏み込まれ、ケータイ履歴を公開しろの、やれ銀行口座を公開しろのと、身銭を切っているわけでもないテレビ桟敷の観衆に要求される 

ケータイを女房に踏みつけさせるという手は一匹の男として情けない 何かほかにやる事がありはしないか? 力士にもプライバシーはある 意地もむろんあろう 土俵を割る前に言葉の張り手を一発という力士が一人や二人、いてもいい 土俵とは力士の聖域 どう戦うかは力士個人の領分 「公益」の定義のこともあるが、「真相究明」派の観客に、力士の真剣勝負に見合っただけの観戦料金負担を裏付ける、銀行口座公開の用意はあるか?
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行動文化(38)  「八百長」=悪か? 

 たいがいにしとけ
 相撲協会は、八百長騒ぎでいまピンチ このままでは相撲興行消滅 関係者はこの寒空に失業する

「真相究明」は響きのいい言葉だが政治家の汚職とは次元がちがう 相撲興行にはなじまない おとなげ無いのである 正義の味方気取りの「真相を究明しろ!」これはおおむねテレビ桟敷の観客の意見である 砂かぶりからの声ではない テレビ桟敷の観客はそんなに立派で、力士たちよりエライのか? 身銭を切って相撲業界を支えているのか?


大事な問題は相撲興行の存続のはず ケータイの履歴や銀行口座の金銭の出入りを白日のもとにさらせば片付く題ではない 興行を立て直すためには「真相究明」しかないか? おとなの知恵の出番である   そもそも公益法人の「公益」とは何をさすのか? 観客への奉仕か? 少なくとも「フェアプレーへの期待への裏切りは公益に反する」というような、単細胞のアタマで仕切れるようなレベルの問題ではない ガキにでもわかるスポーツ界の「フェアプレー」を絶対唯一の基準に、一知半解な正義論をふりかざして「真相」を究明して「不正」をただす事だけが公益に叶うとは思わない 


 
介入を避けて、業界の自粛にまかせよ
一見厄介な連立方程式のようだが、方法がないわけではない


まず、「真相究明」とはおっしゃるが、事の真相とは八百長があったかどうかをはっきりさせればすむような単純な問題ではない 判断材料を集めるだけでも至難の業だ 相撲とは芸能興行? スポーツ? といった類の歴史や本質論、制度の目的や内容、力士たちの価値観、入門のいきさつ、力士生活の現状――すべてに通じていないと適切妥当な判断は無理だが、業界に深くかかわっている人たちのコメントは、一様に歯切れが悪い 当然だろう あちらを立てれば、こちらが立たない 「おれは評論家じゃない」といったところ


それに、相撲の場合「八百長」は必ず「悪」か? 「真相究明」派は「そんなこと常識だろう」と言うが、そうは思っていない者も少なくない 八百長=悪を立証する必要が生じる これは大変な作業になる やれるか? 立証できたとしよう あとに何が残る? 後味の悪さと荒廃だけではないか? 


業界の自粛を期待をこめて温かい目でみていようではないか 古来、相撲興行をかげで支えてきたのは、贔屓の旦那衆である 観客だけに勝負を仕切らせておく場面ではなかろう また力士諸兄にも男の意地があろう 力士は観客に全人格を捧げなければならぬか? 土俵は君らの聖域のはずだ

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行動文化(37)  無想剣   

 てげてげ精神

 小生が生まれ育った日向の国では、ほどほどにしておく事を「てげにうっちょく」という 「てげ」とは「たいがい」 正確な発音は「てげ」は「チェゲ」  


「うっちょく」とは「棄っちょく」で「放置」 過剰介入をひかえて自然解決に任せた方が結果がよい事を知っている者の、経験に学んだ現実処理の知恵がこの「チェゲチェゲ」精神の本質なのだが、昨今この慣習が宮崎で槍玉に上がっている 


「てげてげ運転」はいかん 車の運転は正確着実に――交通警察の、しごくもっともな主張だが、ちょっと待ってもらいたい 「テゲ」の否定は、大脳知への過剰評価による失敗につながる 人体はもっと巧妙にできている


思考停止やよそ見は論外だが、意識的な我々の危険回避行動など知れたものである事は、生き物の免疫機能に明らかである 臨床医の仕事とは人体に備わる自然治癒機能の補助にすぎないことを、どうかお忘れなく 日向の「チェゲチェゲ」は決して悪徳ではない 過剰介入がもたらす弊害を見越した、老巧なオトナたちの経験則なのだ


 


「放置」という智慧 


以前、ゴタゴタがおきると「ほっとけ」がキメ台詞の家老の日常を描いたテレビドラマがあった 作者を記憶していないが、「放置」も賢者の知恵のひとつ


女賢しゅうして牛売りそこなう 角を矯めて牛を殺す愚は古来、女子供の……おっとっと、口も災いのもと 事故のもと 右足は自動的にブレーキペダルへ―― 失礼いたしました けっしてそんな事はございません、いま、牛を売りそこなっているのは男ども レディ方の方が現実的で賢い 


半世紀まえ、戦争に負けて男どもはすっかり自信をなくした 団塊の世代もふくめて平成の男どもは頼りない 国どころかレディ一人護れない


昨今の男どもは木枯らし紋次郎ではない 車内暴力にも「あっしには関わりのねえこと」と知らん顔をする レディ方に申し上げる 昨今の男たちにエスコートなど期待なさいますな とても無理 一見たのもしそうな警察の好漢たちが、賢明な古人の行動律であった「テゲテゲ」を悪徳ででもあるかのように非難する 「安全着実」はドライヴの鉄則だが、過剰緊張は意識野の死角をつくる テゲがいいのだ 「八方睨み」はこれ 武道では居着きのないバランス維持を「剣体」とも「自然体」とも呼ぶ ここから即妙の危険回避の動き「無想剣」が出る マジメは美徳だが、勝負は「不埒者」の方が強い 自然体とは「不埒」の構えである マジメ人間が無用に他人を追い詰めて、事をやぶる 


 

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行動文化(36)小著『「バカの壁」に異議あり』が 流通を妨害されている理由 その4 

 小著『「バカの壁」に異議あり』が

               流通を妨害されている理由 その4


揚げ足取り?  小股すくい?


小著『「バカの壁」に異議あり』に、「揚げ足取り」とか「小股すくい」という批判意見がある 読書の習慣のない人たちの意見なら解らなくはないが大手出版社の編集キャリア組にこんな意見がある 


たとえば『バカの壁』の序文の中に、「我々が人生で出会う問題には正解はない、とりあえずの答えがあるだけだ」とある 『バカの壁』の内容はみんな、その「我々が人生で出会う問題」のはずだが、この「正解はない」の筆法でゆくなら『バカの壁』の内容とはみんなとりあえずの意見ということになる  


ところがそれをいうと「揚げ足取り」とか「小股すくい」などと彼等はいう 


また同書のP、38には、「カールポパール」なる人物の言葉という「反証されない理論は科学的な理論ではない」を引き合いに出して、科学には「反証」が必要なのだとある 反証されてこそ科学的な理論である、と 


科学者たちの世界とは、論理が逆立ちしている奇妙な世界らしい 我々の世界では「反証」されたら、つまり「誤りであることが立証」されたら、その瞬間にその理論は崩壊して無価値となる 原文を確認していないが、「反証されない理論」とは、「きびしい批判に耐え抜いていない理論」、つまり「正しさが立証されていない理論」の誤訳ではないか? 科学の世界ではどうだか知らないが法廷闘争では反証されたら、検事側の仕事には「謝罪」が残っているだけだ


  


数は少ないが、硬派の論客は、まだいる


状況の酷薄さとは裏腹に、現代とは「やさしさ」、「いたわり」、「思いやり」の時代である 叱る上司は悪い上司、叱る教師も悪い教師、ラジオ体操の音頭役も歯の浮くような声の出し方をする あれは体によくない やめてもらいたい ならば聴かなけりゃあいいではないか? そうはいかない そのあとの「ビジネス展望」をまれに聴く いやでもあの「やさしいやさしい声」を聴かされてしまう そして一日の出鼻をくじかれてしまう それとも、キリリと引き締ったイキのいい声で音頭をとったら彼、パワハラで降ろされるのか?  


小生の『バカの壁』批判も、「小股すくい」とか「揚げ足取り」とかいわれてしまうのは、どうやら「著名な大脳学者に対して失敬じゃないか 野中日文なんて聞いたこともねえ名だ 分際をわきまえろ」ということらしい 小生が武道界の人間であることも災いしているようだ 「たかが棒ふりじゃねえか」ということ 「武道の武の文字があるだけで本は売れませんよ」という言葉も出版界の人間から聞かされた スポーツ芸能人と一緒にしてもらいたくない 剣をペンに持ち替えれば剣客はペンで時代と世界を斬るのだ 見そこなうな

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行動文化(35)小著『「バカの壁」に異議あり』が 流通を妨害されている理由 その3 

 小著『「バカの壁」に異議あり』が

流通を妨害されている理由 その3


 


 生理学者のピンボケ「文武両道」論


「知行合一」へのピンボケ論考につづいて、つぎのような奇妙な文武両道論が展開されている 「文」とも「武」とも無関係の生理学者が文武を語るとこうなる ――これが「文武両道」の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味がない。学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。(P、95)  


前章の「脳内の自給自足」の話は専門家の意見として興味深く、文句なしに面白く読めたが、畑がちがうとこうなる 「よせばいいのに」の実例


並列であるか直列であるかは別として、「文」と「武」とはまったく別の分野である はっきり区別されていないと「両道」とはいえない


そもそも文武両道は「知行合一」を論ずる場に持ち出すべき問題ではない アタマの中でグルグル回っていては文も武も習熟のしようがないではないか 著者の頭の中ではいったい、「文」と「武」とはどう区別されているのか?


知ったことが出力されてこそ文武両道だと著者はいう 冗談ではない 「やさ


しい男」を装えば結婚詐欺はうまくゆくと「知」って行動に移せばそれが「文武両道」か? 素人の一知半解をからかうジョークとしてなら使えるだろう


 


外務省攻撃に示されている著者の「文」の素養


「知」は認識面からの把握、「行」は具体行動だが、文と武とは、それとはまた次元も場面もちがう、それぞれ別の分野での「知」と「行」の仕事である 文と武とは入力と出力の関係ではない 一般論を離れた、もっと具体的な、ペンをとるか剣をとるかという出力の向かう方向の違いである


優れた臨床医が病院経営にも辣腕をふるっているような場合なら「文武両道だな」としゃれてみるのもよかろう 「からかうなよ」ですむ だが文人としての素養と武人としての鍛錬の両道をさすのだという「文武両道」の常識を否定して、「知った事を行動にうつす事が文武両道の本来の意味だ」と生理学者に主張されて首を傾げない者がいるだろうか? そんなことを言い出すのは「文」のない人間である この著者、文武両道の文脈で外務省攻撃を敢行している 「いっそのこと外務省は宮内庁と一緒にしてしまって、「儀典庁」として儀式だけやっていればいい ――テーブルマナーとかそういうことだけきちんとしていればすむでしょう。ただし、そういう奴らが大きな顔をする必要は無い」(P、106) この著者の「文武両道」論の「文」とはつまり、このレベルのものだ

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行動文化(34)小著『「バカの壁」に異議あり』が 流通を妨害されている理由 その2 

 小著『「バカの壁」に異議あり』が

流通を妨害されている理由 その2


 


人を動かすのは生理的な欲求だけか?


人間は変わるのが当たり前、なのだという だから、と次につなげてゆくこの論法 独走というよりも暴走である 


なるほど、その時の気分でものを言う人間はコロコロとよく変わる これは事実 しかし世の中には口の軽いオッチョコチョイもいるが、言葉を重く使う君子も、意地で生きているサムライもいる事を忘れてもらいたくない 


変わるのが当たり前? 生理学者とは水平思考の科学者、つまり技術者である 学際を弁えて士道や実践論の世界に土足で踏み込まぬ慎みが学者の「礼」のはずだが、この生理学者は、人間から尊厳性を剥奪して、日本人を無責任で恥知らずな生き物のレベルにひきずり降ろさないと気が済まないらしい その時々の「とりあえず」の措置で生きてきた著者は「士道」というものに対する視点は持ち合わせないのだろうが、『バカの壁』の伝統文化への応対には「軽視」や「冷笑」しかない 人とはただ新陳代謝を繰り返しているだけの動物ではない 男女を問わず、「意気」も「意地」も「プライド」ももっている 


人を動かしているのは生理的欲求だけではない 命よりも大切なものがあることを、少なくとも「士」と呼ぶに値する者たちは知っていた 名誉のためには武士は命をかけた 場合によっては主君にまで刃向かって意地をみせた   


 


陽明学とは何かといえば、「知行合一」。すなわち知ることと行なうこととが一致すべきだ、という考え方です しかしこれは、「知ったことが出力されないと意味がない」という意味だと思います。(P、94)


陽明学の「知行合一」とは、知ることと行なうことが一致すべきだという考え方ではない 一致すべきだ、ではなく知と行との分離は不可能、という主張である 知と行とを一致させよ、は「先知後行」を掲げる朱子学の立場である  


「事上磨練」を重視する陽明学は、思考の観念化をきらう 知行合一説は「現在の哲学」とも呼ばれる陽明学の緊張した時間認識による学説であって、朱子学のように知と行とを先後軽重の関係でとらえない 陽明学の「知行合一」は、朱子学の「先知後行」へのアンチテーゼなのだ 知行合一とは陽明学の「傳習録」の句である 著者は出典にもあたっていない 良い度胸だ 「知ったことが出力されないと意味がない」というが、知と行とを分離させたのでは陽明学ではなく朱子学の立場になってしまう 論語の「朝聞道夕死可矣」でも似たようなピンボケを披露しているが、自信満々の態度のわりには拙劣な論理構成 この自信の根拠が不明だが、度胸は時として無知の実証   

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行動文化(33) 小著『「バカの壁」に異議あり』が流通を妨害されている理由(1) 

 小著『「バカの壁」に異議あり』が流通を妨害されている理由(1)

 「バカの壁」の人間流転論は無節操のすすめ


 『バカの壁』の著者はよく「真理」という文字を使うが、著者の流転説では真理さえも「とりあえずの答え」の中に入る ヘラクレイトスの「万物流転」も例外ではない 第五章の「自己の情報化」の項に、「流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ 真理は動かない、不変だ、と思っていた 実はそうではなく、不変なのは情報 人間は流転するということを意識しなければいけない」とある(P・54) 脳学者の意見だから難解なのではない この難解さは、科学者の文章とも思えぬ悪文のせいである これでは古人は情報をすべて真理と思っていたことになり、ヘラクレイトスの「万物流転」を真理の言葉と思ったのは古人の錯覚だということになってしまう


古人が「真理」と位置付けている言葉は、不易の道理を指し示す言葉として歴史の批判に耐え抜いた言葉である 著者はここではヘラクレイトスの言葉と新聞記事とを同列に取り扱い、一括して「情報」と呼び、「人は変わるが情報とは新聞情報と同じもの」ときめつけている 歴史の批判に耐えてきた哲人の真理の言葉と新聞記事のニュース価値とは価値の次元がちがうだろうよ 新聞には第一級の論客もいることを知っているが、「各紙絶賛」が腑に落ちぬ 


 


人間は変わるが、言葉は変わらない (P・63) 


ちょ、ちょっと待ってもらいたい 人間が変わるかどうかは信義と節操の問題であって、生理的な新陳代謝をいうのではない 


情報不変論は著者の個人的な情報論にすぎない 我々は情報とは時々刻々変わるものだと思っている だからこそ「新聞」なのだ 新聞に印刷された文字が変わらないことを問題にするのは著者ぐらいのものだ 人間は変わる、というのが著者の人間流転論だが、その時の気分や都合や事情次第で気軽に変わってしまうのは「無節操」ということである 著者の生理学ではそんな人間を基準に研究するのだろうけれども、東アジアの士大夫の学問である朱子学は下郎は相手にしない 生理学と実践論の差だ 「信」を失ったら我々の社会生活は破綻する 人間関係もズタズタになる 生きていられるものではない 著者の言うように「変わる」ことを前提にした発言は人間から信頼感を剥奪し、人と人との間に不信の障壁を造るものだ 世間には言葉の軽い者もいるが、言葉を重く遣う者もいる 出発点に人間不信を掲げたのでは行動論のすべてが倒錯したものになる この著者に「信義」を語る資格があるとは思わない 小生は、著述とはすべて著者の生血で書く血書だと思っているが『バカの壁』は著者本人のペンでさえなく、編集部の作文であることを読者諸賢ご存じか?

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行動文化(32) 小著『「バカの壁」に異議あり』に対する流通妨害 1 

 小著『「バカの壁」に異議あり』に対する流通妨害

 


 大脳生理学者の、とりあえず(姑息)の人間論


 各紙絶賛という『バカの壁』を、大脳生理学者の行動論という部分に興味を覚え、発刊時に少なからぬ期待を持って読んでみた ニューラルネットの構造や、神経線維の中を刺激が伝わる早さは音速なみ、といった話には意外感もあって興味深い また、とりとめもない雑念妄想が脳の構造に由来するという意見にも、思わず「そういうことなのか」と膝を打った 坐禅とは雑念妄想との格闘だが、著者によればこれは脳の仕組みに由来するものだという そうとわかれば対処法はある 専門家の意見は聴いてみるものだなと思った


 だが、主題が人文科学の世界に入ったとたん、?? この視野の狭さと結論の出し急ぎ――科学者どころかはっきり言ってこれは大衆の典型――それでいてこの自信過剰 この調子で哲学を論じ宗教を批判し人生を語るのである 度胸だけは一級品だが著者は生理学者 取り扱うテーマが大きすぎる――なんだこれは? と思って序文を読み返してみると、我々が人生で出会う問題には正解はない、ただ「とりあえず」の答えがあるだけだ、とある 愕然とした


 


『バカの壁』の執筆者は、奥付けに掲げられている著者ではない


なんのことはない この『バカの壁』の内容とはすべて「とりあえず」の意見ということなのだ とりあえずの措置を古来「姑息」と呼ぶ 生理学者の「まにあわせの人間論や死生観」につきあっているヒマはない 冗談じゃない


それよりも何よりも、記録的なこの超ベストセラー『バカの壁』の執筆者は、奥付に掲げられている著者ではない事を、あとで知った では本当の執筆者はいったい誰か? 出版社の若手編集部員である 全くの創作ではない 名義人の談話をもとに再構成したいわば門外漢による「聞き書き」なのだが、しかしその事はどこにも書いてないから、広告や書店の店頭でみたら誰でも奥付にある大脳生理の権威が執筆した本と思う ゴーストライターの手になった書物はあるが、学術書にもそれがあることを小生、不敏にして知らなかった 

これを電波も新聞も絶賛し、教育界も教材に使っている 信義も節操もあったものではないが、読み進むにつれて問題は見解の相違のレベルを越えた 編集部にペンを預けてしまった人物は科学者である 反論はむろんお覚悟であろう 立場上、原典無視の生理学者に東洋思想を踏み荒らさせるわけにはいかない 武道界の名誉にも関わる 反論を書いた そして流通を妨害されている 書店は、「この本はうちでは……御注文なら取り寄せは可能ですが……」版元には返本の山 どこにどんな力が働いているのかは読者諸賢の方がお詳しかろう

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