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行動文化 (13)  「契約」と「誓い」の差 

  結婚とは「契約」か?

契約は「条件」を伴う 破棄もありうる だが、「誓い」となるとそこには両者の人格が関わってくる 「解消」も「破棄」も許されない 


「契約」も「誓約」も似たようなものじゃないかと思っているのが昨今の日本人だが、「誓」とは本来、そんな手軽な文字ではない 全人格をかけての意思決定が、「誓う」ということである 高校野球の「宣誓」 または法廷や議会での宣誓 いったん誓ったからには取り消すことは許されない 日本人の場合はここへ「天地神明もご照覧あれ」と、至高至尊の「神」が立ち合う


「契約」にはこの、のっぴきならぬ厳しさや重さはない 気が変わったり、不具合が生じたりすれば違約金を負担すれば解消できる 


「男心と秋の空」なのか「女心と秋の空」なのかはともあれ、結婚も契約の一種と考えれば心変わりも慰謝料で片付くが、神様が立ち合っていなくても「二世と誓い合った」夫婦ならばそうはいかない 誓いを破ることは武士でいうなら自決ものだが、ここに君子と下郎の差が出る 事実上の「重婚」を敢行していながら、自決どころか負担はバラの花束などで済まそうとしたり、またその不誠実を「寛容の美徳」で許そうとする 契約なら寛容もいいが、「誓い」の破棄やその寛容には、たとえ当人はそれでいいとしても必ず天罰が下る 


「正直」とは自分をだまさないこと 正直でいれば夜はよく眠れる いったい誰の命、誰の人生なのか? 借金を完済し事業には成功しても、自分にウソをつき体をこわしたのでは元も子もないではないか 文化賞学者数学の岡教授は、「正解とは情緒的納得のことです」と語っている


元気で正直が一番


合気道、という武道がある 植芝盛平という槍術家が唱えた「気」の武道


「みそぎの武道」とも呼ばれてきた 養気の道を説く その心得の第一が、気の濁りを去れ これが「みそぎ」 心身のリフレッシュ 「怯(ひる))」の原因をなくせよ 日常の言動の中のウソが怯みの原因 孟子は「気」の人 その言「みずから顧みて直くんば、千万人といえども吾往かん」顧みて直ければ、いったい何を恐れ、何を怯えるのか? 人とは天地の子 「卑」や「怯惰」が残っていたのでは気は伸びない 自己を限定するからである 孟子は、「浩然の気」を養った 養気の道は「濁」を去ることにつきる 濁を除けば身に備わっている本来の浩然の気が蘇る かえりみて、どこかに疚(やま)しいところがあると、それが「怯(ひる)み」をつくる これが「病気」 浩然の気とは、古今を通じて天地を貫流している宇宙の根元の気である 略して「元気」という 天地と気結びをして矮小な自己をなくすれば元気になるに決まっている ▲▲

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行動文化(12)「負ける」と判断したら、逃げよ・「思わない」ということ 

  「負ける」と判断したら、逃げよ

記者は武道界の人間である 武道とは兵法である その記者が「逃走」を奨励している 何だと? と思う読者諸兄姉の顔が見えるようだが、逃げるのは卑怯か? ことわっておくが、逃げるのは「危険から身をかわす」という事であって「敗北」ではない 一流の戦略家とはみな逃げ上手なのだ


「檀公の三十六策、走を以て上計となす」 走、とは遁走 三十六計逃げるにしかず、はここからきている 戦えば必ず壊滅という強大な敵に対する選択肢としては、降伏か、講和か、逃げるかの三つしかないが、檀公は、降伏は「全敗」、講和は「半敗」、逃げる事だけが「未敗」だといっている


未敗、という言い方が面白いではないか ものは言い様だというが、この「未敗」は負け惜しみで言っているわけではない 「退却も作戦の内、それも上策だ」という、感情論を離れたクールでドライな結論


蔚繚子は「禍は小人と交わるにあり」といっているが、相手にしない方がいい種類の人間はいる 火力戦に限ったことではないが、屈従を強いられたり命を落としたりする場面でもつまらぬ意地を張って逃げずにいるのは胆力の証明にはならない 愚か者であることの証明にはなるだろう 


卑怯? 恥? なんとでも好きなように言わせておけ 戦闘者はエンターティナーではない 他人の納得や満足のためには奉仕しない 他人がこっちをどう思おうとそれは他人の問題 なんの痛痒も感じません どうぞ何とでも


 


「思わない」ということ


剣は「居着く」ことをきらう


居着く、とは特定の状態への身心の停滞をいう 心理的には一種の過剰意識をいうが、居着いた状態とは相撲でいうところの「死に体」であって、剣の場合、たとえ一瞬たりとも居着いたら眼から火の出るような痛烈な一撃を以て思い知らされる


もう昔のことになるが、早坂暁のテレビドラマに「夢千代日記」という人気番組があった 底流するトーンは、裏日本の海の色を思わせる暗い色調の、若く不遇のうちに命を終えた歌人前田純孝の歌である その中の一首、「悲しみは悲しみを呼び 悲しみは悲しみを訪い 我に集まる」 暗い歌だが、暗くてもこのドラマの格調は高く、画面も美しかった しかし、前田純孝はどうして哀しみの器のようになってしまったのか 悲しみを思うからである これを剣では悲しみに「居着く」という それは心の死に体 それでは身を傷る 悲しみの理由を数えればお互い、際限はない 思わずにいようではないか ▲▲

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行動文化 (11)  立場がわかっている 

 精神の位どり どはってん、という四人組のバンドがいる メンバーの面構えはロックバンドだが、「リズム演歌」を掲げている どはってんとは「怒髪天を衝く」の怒髪天だが、なるほど、いう事はハッキリしている 「稼業としてやってるんじゃない、自分の思いをぶっつけたいから歌っている 人気やご褒美がほしくて芸をするのならペット」 四人とも四〇代 はじめから売れたわけではない メジャーデビューは1991年だが、活動を中断して包丁の実演販売をした時期もあるという 「バカはバカなりに譲れない一線がある」(ど真ん中節)、「最後に勝つために戦線離脱 勝負の時じゃない」(わが逃走) といった調子 最近なんとかバイトをしなくてよくなったという よかったな 歌は聞いていないが気分のいい連中だ 聴衆に媚びないところがいい ♪男なりゃこそ意地かけまする 辰巳藝者も藝は売ったが「笑顔」は売らなかった 物書きにもいろいろいるが、記者の場合も連中と同じことだ エンターティナーではない 時代に向かって言いたい事を文字にしている 怒髪天か 覚えておこう 怒髪天は天部のほとけ、弟のような連中 彼らと小生との違いは音を使うか文字を使うかの違いだけだ アートである お互い、術になっていなくては始まらないが、響くかどうかは最終的にはこっちの責任じゃない 売れなけりゃ始まらないが、しかし「売れない」ことは「負けた」ということではない フォークの元祖ボブ・ディランも、歌いたいから、まだしゃがれ声で歌っている 反戦教祖に祭り上げる動きがあったが、相手にしない たぶん自分を芸能人とも思っちゃいない この男も客に媚びない 気分のいい奴だ  


 


 唯して諾せず


 礼記の言葉である 親や師の言葉には無条件に従うことをいう 


もう四十年も前のことだが、京都の舞の師匠が、「最近の娘さんたちは何か指示しても素直に従わず、「なぜ?」が返ってきますとボヤいていた 敗戦でみんな平等になってしまった 


昨今の家庭には親子兄弟はいない いるのは老人と若手、男と女 職場にも仕事のできる者とできない者はいるが、長上(目上)や後輩はいない 日向高鍋の藩校明倫堂の教育内容が五倫五常であった事を知っている者は、肝心の高鍋人の中にさえ何人もいない 敗戦のローラーで地ならしされて、日本列島は真っ平らになってしまった

 自由平等はつまらない 父も母もいない 兄も姉もいない むろんお爺ちゃんもお婆ちゃんもいない 師匠も門人も、先輩後輩もいない 当然敬語も忘れられ、言葉を択ぶことも忘れられ、言語も日本語は使われなくなった ▲▲

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行動文化 (10)  人は草食動物 

肉など食わなくても生きていられる


♪濡れた仔馬の立て髪を 撫でりゃ両手に朝の露―― また、♪どこまで続くぬかるみぞ 三日ふた夜、食もなく 雨降りしぶく鐡兜―― いななく声も絶えはてて 倒れし馬の立て髪を 形見といまは別れきぬ ―― もう知る人も少ない戦時歌謡の「討匪行」 牛馬のごとくにコキ使うとはいうが、我々の世代あたりまで、馬たちとの付き合いはこんなものだった 牛も馬も戦友、いくら飢えても殴り殺して食うなど、考えもしなかった 苦楽をともにし、死んだら丁重に葬った 子供のころの追憶の中には、どうしてもっと大事に、可愛がってやらなかったかという、牛や馬にまつわるものが多い 鶏にしたところで同じ もらうのは卵だけだった


 子馬を親からひき離して新しい飼い主に渡す時は、人に言うように「可愛がってもらえよ」と声をかけた だが、馬を育てたことのある者は知っている


子馬は新しい飼い主に牽かれて行く時は親馬を振り返って泣き、親馬も子馬を追おうとして嘶いた 


人ほど酷薄な、罪の深い動物はいない 動物性蛋白質は不可欠だというが人は草食動物である 四十年来、小生は植物しか口にしていないが、まだ生きている 彼等を食わないと生きていられないのなら死んだ方がマシ


 


 何もしないのが一番、という意見


 江戸の昔、冬の夜中に尿意を覚え、外へ出て用を足そうと思った男がいた 板戸を開けようとしたが、凍りついていて動かない ふと思いついて、小をすこしかけて氷をとかし、また少しかけてとかし、苦労してようやく戸をあけて外へ出たが――ハテ、なんの用もなし この男、目的を手段として使い果たしてしまったのだ 諸兄笑ってるが、大丈夫かな? 


ここに気になる事を言う人が二人いる 一人は百姓だが、「労働は愚劣」と言い切る 公務員の年休は二十日間だが、この人物の場合、二十日間は年間の作業日数、あとの三百四十五日は寝ていたい典型的な惰農 生活費は? 住居は竹で自作 照明も暖房も囲炉裏火 一反歩の水田があれば四人家族が一年は飢えない 医療費? 植物も動物も元来、病気はしないようにできている 


もうおわかりだろう 現代の老子と呼ばれた、自然農法の伊予の福岡正信

 もう一人が最後の禅僧といわれた、前掲の禅僧沢木興道、いちばん気の利いた生き方とは、「何もせずに坐っていること」だと言う 若手には聞かせられない意見だが、それを言うと、返ってきた言葉は、「禅は人格形成の道じゃないぜ、人間廃業の道じゃ」 この視点から人生を見直せ、という ▲▲

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行動文化 (9)垂直思考・「自己満足」こそが、最終的な満足 


 垂直思考


 井ノ中ノ蛙、大海ヲ知ラズ サレド天ノ高キヲ知ル 


 つまりこれが垂直思考 


 アインシュタイン、時ノ歪ムヲ知ル サレド己レヲ知ラズ


 つまりこれが水平思考


 科学教の信者たちは怒るかもしれないが、科学の手法とは、認識の対象の分析と推論である 認識の主体すなわち自分自身については追究の手法をもたない もっともそれは古典物理の場合であって先端科学の量子論の場合は別だが、アインシュタインは量子論を受け入れず、客体論に終始した 


量子論の「観測者効果」とは主体論である アインシュタインの視野には人としての主体性の問題は入らない 愚按ずるに、「アインシュタイン」の本来の意味とは「私の主体性」である その彼自身にはちっともシュタイセイがない    


これを称して「羊頭狗肉」という 安岡正篤をまつまでもなく「知識」は「見識」となり、見識は「行動力」となり、行動は「結果」を得て終息するのだ 科学者といえどもこの行程に変わりはないが、科学者の水平思考には、天・地・人の垂直軸が立たないかぎり、死生観には解答は出ない 出ないどころか、科学という現代の神は、進歩すればするほど、人に「不安」を与えたまう 


 


「自己満足」こそが、最終的な満足


 「ウーマンリブ」華やかなりしころ、禅寺の老僧のところへ、そのリブの女闘士がやってきた 老僧を相手に、滔々と持論を述べること二時間 一段落したところへ、それまで黙って聴いていた老僧が、初めてものを言った 


「お前さん、なかなか牛のケツじゃのう」


 プロポーションをからかわれたの思った女闘士、柳眉を逆立てた


「牛のケツとは何事! 許しませんよ!」 老僧、あわてず、騒がず


「牛はモウじゃろう ケツは尻じゃろうが モウの尻でモノシリじゃ」


女闘士の「博学」をホメたのである この場合、「博学」とは、「お前さん、よくまあクダラナイ事をたくさん知っているなあ」ということ 


これだから禅坊主は油断がならない 禅では「抑下の卓上」というが、禅者がホメた時はケナしつけている時 ケナしつけている時は全面的な評価と支持

どうしてそんな事をするのか? ヘソ曲がり(つまこれは支持) だからである 全面支持の場合は安心してケナしつける 「自己満足」とは批判用語だが、エンターティナーならいざ知らず、肯心みずから許す自己満足を得ている者なら、金持ちケンカせず 他人に否定されてぐらつくような事はない ▲▲

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行動文化 (8)  日本人は戦争向きにはできていない 

「数」の多いのがいいのなら、ウイルスの数がいちばん多い


ベストセラーにろくなものはないという意見がある ロクなものでないかどうかはともあれ、「超ベストセラー」とあれば倍倍効果で売れ行きにはずみがつく 『プラス思考』、『清貧の思想』、『バカの壁』――みんなそうだった    


何はともあれ体力あっての出版業である 売れなけれは自滅あるのみ


もう古い話になるが、本の売れ方について『室内』の山本夏彦氏いわく、八千部売れた本の場合、本物の読者はいいとこ五百で、あとは野次馬


売れてこその執筆と出版ではあるが、店頭に並んでいる本に代価を支払うのは読者であって、書き手でも版元でも評論家でもない


では、執筆も出版も市場性がすべてなのか? 「その通り」と居直る出版人にはまだ出逢っていないが、しかし姿勢はそれぞれ一様ではない まあ、先物には手を出さない 民主主義とは数の原理、数とは力、民主主義の限界は認めつつも、現代ではベスト 異論は少ない 


だが、この伝で行けば「ペンは文化の鋤」でもなんでもなく、ベストセラーの書き手が一国の文化を支配していることになる 小生の『「バカの壁」に異議あり』(文藝書房)は、発行と同時に流通を妨害されている 最後の禅僧といわれた沢木興道は、「数の多いのがいいのならバイキン(ウイルス)の数がいちばん多い」と云った 日本をウイルスの国にしないのは、ペンに関わる者たち


 


「秀才信仰」と「肩書き」主義 ――認めたくない情報にこそ価値がある


壊滅的な敗北といわれるノモンハン事件は、ソ連軍の新兵器BT型戦車に蹂躙された戦闘である 戦車隊員として参加した司馬遼太郎氏によると、日本戦車からの砲弾は相手に届かず、敵戦車のはるか手前に炭団(たどん)のようにポトッと落ちた 敵戦車の砲弾は、生鉄の日本戦車を、遠距離からクズ鉄にした 


この新型戦車の情報は、事前に日本軍に入っていたのだが、無視された 理由は、この情報をもたらしたのは陸大をビリに近い成績で卒業した奴というので、「ビリが持ってきた情報が賢いはずがない」 つくづくと思う 日本人は戦争向きにはできていない 侵略戦争をした? 買いかぶり そんな力はない

 歩兵として参戦した先輩から聞いたが、「敵戦車の死角から接近して爆薬をキャタピラの下へ敷け」が命令 蛸つぼ穴を掘って身を隠し、重箱型の爆薬を抱えて待ちうけた 敵戦車接近、死角から飛び出してゆくと、方向制御式の銃座がクルリと回って機銃でバリバリと撃ってきた 「敵さんの戦車には死角などありはしなかったよ」 「学問」も「情報」も無用 「学歴」と、「つくられた情報」、「売れ筋」の本だけを相手の仲良しゴッコ 企業も国も、亡びる ▲▲

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行動文化 (7)  心眼 

 人を見る目  「文は人なり」とも「百聞は一見にしかず」ともいうが、対面していても相手が見えているとは限らない 

二天一流の剣客宮本武蔵は、観見二つの目を研げと言っている 人を見る目の場合、「見」の目は補助、主役は「観」の目である 心眼という 


ハゼを釣るには、赤く塗った錘をつけることがコツだという すぐ寄ってくる ハゼに聞かせてやりたい言葉だが、人とは結局、経歴でも言葉でもない 品性であり行動である 「観の目」を持たないと対面していても相手の品性など見えはしない そこへ自分の「都合」や「事情」などがからんでくると、なお見えなくなる 記者にも手痛い失敗がいくつもある 記者の場合は体験不足が原因になっている 人を避けている時間が長かった 潔癖といえば聞こえがいいが、ありていにいえば「学者バカ」と呼ぶ百バカの一種 


物書きにもいろいろおり情報源もさまざまだが、要するに言葉を商う一種の口舌の徒 仕事としてはソバ屋の釜の中のように、言う()ばっかり 言葉自体は生き物だから人を動かす だがそれは言葉の力 物書きとは言葉の仲介業者と思っていた方がいい 付き合うなら作品とだけにしておくのが賢明です


 


おとな、とは?


子供のころは、オトナとはみんな強くて、えらくて、頼もしいのだと思っていた 成長するにつれて、そうではない事が見えてきた


人はオトナになるにつれて「ずるさ」や「汚さ」に鍛えが入り、磨きがかかって厚顔無恥になり、最後には居直ることを覚える つまり「すれっからし」になる たとえば職場のトイレを出るときは、トイレットペーパーを必要以上に巻きとって、自分のティッシュとしてポケットに入れる 国家権力の濫用をふくめて、かつてはこんな男を「旅慣れた野郎」と呼んだ つまりゴマカシと不労所得の追及 若手は先輩たちのこんな振る舞いを「なるほど」と見習う 


加齢とともに視野が広がり目が澄んでくる者もいなくはない 記者最近、つくづくと思う 「老いる」とは己れの身勝手やずるさ、汚なさや、あさましさに気がついてゆく過程である とても威張れたものではない 結果は本物のオトナの場合、私財の社会還元に向かう 「おとな」とはどんな生き物か


それには「幼児性」を考えてみることだ 幼児性としていま思いつくものをいくつか挙げれば、1、自己評価の点数が高い 2、他人の負担に鈍感 3、自分の取り分しか考えない 4、結果責任が負えない 5、他人を感心させたい 6、輝きたい 7、ご褒美(勲章) を欲しがる ――こんなところか この反対、つまり「見返りを求めない弱者庇護」がオトナの条件 ▲▲

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行動文化 (6) スミレ タンポポ 虫たちが少年を育てる 


 「泣き方が悪い」幼児を虐待する親たち 被害者も加害者も幼児 責めてみたってはじまらない 同級生をナイフや包丁で刺し殺す少年たちも同じこと 「命の尊さ」や「基本的人権」は、教師自身への自戒用の言葉
 進路の希望が叶えられないことで心のバランスを崩して級友を刺した山口の少年がいた 無垢な魂をもつ努力家で、学業成績も悪くはなかった 病院で医師や看護師たちに親切にされて、自分も看護師になりたいと思った 


 素直な、いい少年だ しかし母親は同意しなかった 工業系に進ませたかったようだ 親は親なりにこの少年の将来を案じていた 


 どっちが正解だったかは判らない むろんこの少年の行動はほめられたものではない なんの解決にもならぬ愚かな「八つ当たり」 


 気になるのは、教育のプロの集団のはずの学校側の指導法 「命の尊さ」や「基本的人権」、また「やさしさ」、「思いやり」といった類の総論だけでは、「二度とこのような事がないように」という紋切り型のコメントの繰り返しに終る 


 子供たちは視野の狭い「単細胞」がカッコ悪いことも「ジコチュー」が嫌われる事も知っている その視野を広げる仕事が教育 人とは感情の動物ではなく、「知」の生き物である 「自重」を教えよう 自分で考えさせる本物の「知育」へのギアチェンジで何とかなる。




 氏より育ち ――「銃殺」を選んだ死刑囚 


 三島由紀夫の自決はまだ記憶に新しいが、「銃殺」を自決の手段として選んだ死刑囚が現代のアメリカにいる 1985年に死刑判決を受けた、ロニ―・ガードナー(49) 処刑は薬物注射が主だが、電気椅子のほかにユタ州では銃殺も最近まで選択肢として残されており、ガードナーの場合は辛うじてこれに間にあった 


 銃殺を選んだ理由は「簡単だし、間違いもない」と語ったとある(2010・6・23 朝日紙) これは「死刑囚」ではなく、自裁自決主義のサムライの言葉だ


 覚えておこう ロニ―・ガードナー、か すさんだ家庭に育った 親に恵まれない少年たちのために農園をつくる夢を語りつづけていたという 弁護人によれば彼は犯行当時とは人が変わっており、被害者の遺族は死刑を希望しなかった 「ゴルゴ13」シリーズに狙撃をサムライの切腹の介助、すなわち「介錯」として扱っている場面が出てくるが、開拓時代の神話を思い出す銃殺刑だというので、執行日(2010・6・18・0時すぎ) には100人近い報道人が押しかけた  


 氏より育ち、という 良くも悪くもまず親が人を育てる だがヒネクレた少年の心の傷も、スミレやタンポポ、果樹や野菜や小動物たちが癒してくれる ガードナーは農園を作って「親」のない子供たちを集めようとした▲▲

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行動文化 (5) 「いじめ」対策に武道を 

 「打たれ強さ」を教えよう――武道人と「アスリート」との差

 道徳教育、「生きる力」の教育とは、具体的には何をどう教えることをいうのか? 「基本的人権」、「命の尊さ」、「やさしさ」、「いたわり」、「思いやり」を教えることか? 何か忘れてはいないか?


 「武道」とは本来、スポーツではない 命の護り方、護身の心得である 武道人とはアスリート(スポーツ芸能人)ではない


 武道人には他人の支援も喝采も要らないが、「敗北」は許されない 国もまた同じ 日本は太平洋戦の敗北でアメリカに牙を抜かれ、丸腰になって、いまアメリカの傘の下にいる 独立国ではない


 学校でも「戦い方」は教えない 「格技」なるものはあるが、「闘」の文字は抜かれている 平成の学童たちにも「牙」はないから、なぶり殺しにあう 


 人は考える葦 牙とは人の場合「知力」であり、「外交能力」である 「知育偏重」というが、言葉の暴力からの身のかわし方を、親も教師も教えられない 警察の目も届かないところで一方的になぶり殺し 幼い、幼い、いたいけな「孤独死」 小生、みかねて県教委に自著の武道教育論を10冊ほど寄贈したが、答礼もなく没収された 「県民の皆様方の御支援御協力を」は単なるタテマエ論 県教委には寄贈書籍の受領簿さえない 「必要ありません」 がトップの答弁


 昨今の子供たちは、うかつに叱れない 大声での叱咤激励は通じない 時代も世界も暴言暴力、策謀や恫喝に満ちている 遠慮なしのブレーンストーミングは企業の推進力 怒号の中で仕事ができるようでないと、生き残れない




 「ケータイ」なんか捨てろ


 日本人は「人の和」を大切にする 昨今は必ずしもそうでなく司法取引に応じて仲間を売る者がふえてきたが、スポーツは協調性を育てる しかし武道で育つキャラクターとは、おおむね付き合いの悪い一匹狼 周囲が黒といえば「白」、右といえば「左」、東といえば「西」 協調性は育ちにくい 小生もずっとこんなふうだった 疎外されて当然 いつも一人でいたが、孤独感に悩んだ記憶はない 無視されていても屁でもなかった 里の高鍋は学問の町 幼時から『論語』『孟子』が友 無視OK、仲間外し賛成 静かでいいや 本が読める こいつら漢字が読めない バカどもの仲良しゴッコに加われるかと思っていた 鼻もちならない独善 世間を斜めに見るヘソ曲がりの、蛸つぼひきこもり六十年 結果は時代との断絶 子供たちに見習えというつもりはないが、視力は養えた「和」は大切だが、無抵抗な一人を大勢でよってたかってイビる奴等、ケータイでやっとつながっている連中など、仲間ではない 捨てろ ▲▲

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問い合わせ先 

野中 日文
電子メール アドレス :
 
sakonta@ae.auone-net.jp

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行動文化(4)あいさつ 

 あいさつ


 もうオールディーズの中に入るが、鶴田浩二に ♪古い奴だとお思いでしょうが――ではじまる歌、『傷だらけの人生』がある この鶴田が若かったころ、京都かどこかの撮影所の衆人環視の中で先輩の一人に張り倒されたという話がある いまの人たちには想像もつかないだろうが、戦前はとくに珍しい事ではない 気に入らぬ事があると先輩たちは後輩をよく殴った 


 鶴田が殴られたのは、先輩のそばへ寄って「よう!」とか言いながら先輩の背をポンと叩いたからである 鶴田としては「あいさつ」のつもりである 


 あいさつとは挨拶、つまり肩や背に軽くふれる「挨肩拶背」の略称で、字義からいえば鶴田は型通りに振る舞ったにすぎないのだが、相手にはこれがカチンときた 「この野郎、若造の分際で生意気だぞ」、鶴田は詫びを入れたそうだ 


 鶴田の売り物の「古風」の裏側にはたぶん、この時の先輩の一発がある


 記者たちの世代ならわかる 鶴田のあいさつに欠落しているのは、「慎み」と


「憚り」である 長幼の序の無視 つまり差別の無視 


 昨今の中学生たちは出合い頭に「コンチワ」 目礼を返すと、後ろから「知らん顔してる」とあびせる 先日など、記者に自転車をぶっつけておいて「コンチワッ!」ときた コンチワではなくスミマセン、スミマセンよりもまず他人の進路を塞がないことだろう それが識見であり作法というものだ   




 目を合わせず、立ち止まらず、声をかけず


 毛並みのいい会社には今も残っているが、社屋の通路などで外部の人に出会った時の心得として、「目を合わせず、立ち止まらず、声をかけない」がある


 ところが昨今、これが通じにくい 「あいさつもしない」と思われてしまう 


 上記の三カ条は「無視」ではない 「つつしみ」と「はばかり」の型なのだ 声はかけないが目を伏せ、浅く屈体して敬意を表している またこんな職員は人がいなくても通路の中央は歩かない それで相手は気がつかないのだろうが、だからこそ答礼の手数から解放されるのだ 本流小笠原でもそれをいうが、目立つな ノイズを発するな 「目に立つならは、それも不作法」


 ついでに言っておけば、意図的に無関心を装う「儀礼的無関心」という高度に洗練された心得がある 人さまのなさっている事にはいちいち関心を示さない (じろじろ見ない、聞き耳を立てない)、人が密集している都市に生きていると自然にそうなるシティ派の作法 田舎者には通じにくいが、路上にも私生活はある 目ざとく耳ざとく介入してくるおジャマ虫は有難いか ▲▲

 

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行動文化(3) 郷愿(いなか紳士)と洒脱 

 郷愿は徳の賊なり(論語) 


 「偽悪」をシティ派のテレ隠しとすれば、偽善を論語では「郷愿」と命名し、「徳の賊」と罵倒している ほめられ者になろうとしている「オリコウサン」の田舎紳士のことである 友人としては中庸の士が理想だが、いないなら、せめて気宇壮大で行動が伴わない「狂」か、あるいは付き合いの悪いヘソ曲がりの潔癖漢「狷」を択べ まちがっても郷愿の徒を友とするな 上辺だけをつくろっているニセ紳士 徳の賊だぞ―― 


 なるほど、と思うが、じつは、これは実際には悩ましい問題なのだ 


 孔子も孟子も偽善を嫌う だから狷の「潔癖」や、狂の「意気」を推奨するわけだが、そうは言っても「狷」も「狂」も成長の過程で学人がみせる、過渡的な色合いと感触にすぎない そこを間違うと度し難い「居直り」になる 成長停止 あとは退化のみ 人は知的好奇心を失ったらそれまで


 孔子や孟子は偽善を嫌悪するが、性悪説の荀子は、偽善を推奨する 


荀子のいう偽善とは「善への努力」 子供たちは、目標を高いところに置いて、背伸びをしながら育つ 偽善の偽とは「人為」、つまり善への努力のことなのだ 荀子はここを見据えている 王道よりも、まず覇道


 シティ派の「偽悪」や「露悪」は、テレかくしの擬態である 朱子学が嫌う郷愿の徒とは、テレもハニカミも持ちあわせない鈍感な鉄面皮 徳の賊とは本物の君子に紛らわしいからだが、紛らわしくはない 嫉妬心が強く、「勲章」をほしがり、銅像を建てたがるからすぐわかる どこにでもいる 




 一杯受けてくれ 


 黒沢作品の「七人の侍」の翻案西部劇「荒野の七人」 ユル・ブリンナ―が酒場で腕利きのガンマンを物色、カウンターの隅に屈強な男がいる すこし離れた位置から、ウイスキーのグラスを「一杯うけてくれ」と、カウンターの上をツーッと滑らせて贈る 男が、ジロリとブリンナ―を見る 相手に不足はない「よかろう」と応じた 汗と埃と煙硝の匂いのする男たちが見せる、プライドと、敬意と、意外なデリカシー 暑苦しくなく、ラフで、しかもツボをはずさない「一杯うけてくれ」という、洒脱と謙譲とを兼備した、簡潔な漢文体のあいさつのカッコ良さ―― 高校を終えて南九州から上京したばかりの小生、このシーンにしびれた 「一杯飲まないか」なら無視 「おい、一杯おごろう」では、「乞食じゃねえ!」 かといって、腰に拳銃を吊った男の「一杯飲んで戴けません?」は、気持ち悪いオカマ野郎 横っ跳びに逃げる 「一杯受けてくれ」は「頼み」だ これを受けなかったら男がすたる それで「いいだろう」となる 「これがアイサツというものだ!」と思った 19歳の記憶 ▲▲

 

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