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新刊企画 「武士道と武道~日本人の条件」 (英訳出版の試み) ~その二 

続き~
合気道の場合も状況は変わらない 欧州人の中でも日本文化に通じている階層は合気道を「動く禅」と評価しているが、欧州へ出かける合気道人の中に、本格的に禅を学んだ者が何人いるだろうか? 坐禅の体験者さえほとんどいない まして今回の「武道必修」に、日本人の行動文化の根底を支えている「神道」、それも賀茂真淵、本居宣長の「復古神道」についての素養のある者が一人でもいるのだろうか? 
武術といえば兵法、兵法ときけば『孫子』だが、日本の武道界は『孫子』や「礼儀作法」ときくと首をすくめる かつて小著『武道の礼儀作法』の執筆企画を知って首をすくめた者の一人が日本武道館のトップである ほかにも店頭に出た同書をみて「お堅い本をお書きになりましたなあ」とあきれ顔の武道界の重鎮がいる こんな連中を相手にしていてもはじまらんではないか

国敗れて山河あり 春はさくら 秋の紅葉 白雪を戴く秀麗な富士――日本
の山河はまだ十分に美しい 老いを知らず衰えを見せない永遠の美女―― 惜しむらくはこの美女に配し、この美女を護るべき一騎当千のサムライが――いないとはいわぬが少なすぎる 一人の本物のレディには八人の屈強なナイトのエスコートがつくべきだ 
このナイトたちを必修武道で育てたい サーベルにも拳銃にも頼らない現代のナイトたちを 問題はその手法だが、この春からの「必修武道」にそんなものは用意されていない

義務教育課程での「武道」では、「無事故」は必須の条件になる
無事故とは文字通りの「事故ゼロ」でなければならない 指導者は教師としてではなく、「必修武道」にわが子を託する親の立場で子供たちの前に立て
もし子供たちに傷を負わせたら「自裁自決」の覚悟で子供たちの手をとれ 
これが日本のサムライの振る舞いだ 確信を持って少年たちの実人生に有益な、「武道」による学習成果を挙げよ 関係者諸士にその覚悟と用意はあるか
生涯を武道とともに過ごしてきた筆者は、そのための助言として本稿に松浦静山の「礼剣同源」論を援用した 筆者独自の視点からの「武道行動学」の提示である ご活用願いたい 告訴騒ぎをひきおこして、法廷に「被告」として立たされぬためにも
「武道」こそは日本の行動文化の最後の砦 中等教育への武道復活大いに結構 だがそれを今後の日本を担う少年たちに、いったい誰がどう伝えるのか?
筆者もう残された時間がない 本稿の英訳出版で死に花を咲かせたい。
この英訳出版の試み、翻訳作業を受けて頂ける同志が居られればご協力願いたい。 

      平成壬辰春 日向国 左近太郎野中日文
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新刊企画 「武士道と武道~日本人の条件」 (英訳出版の試み) 

英語版を先に出す理由
 英語文化圏むけの発行は方便 日本人に読ませるために、まず英文で出す
 平成の日本は敗戦時の日本文化解体で正体を無くしている 小生の武道論に、日本人は反応しない 日本の出版界の大半は「武道」を単なる競技スポーツか、普遍性のない特殊な世界と思いこんでいる この事が新刊企画の盲点になっていて、武道の「武」の文字があるだけで本は売れませんよ、などという 事実そのとおりだろう
 だが欧州を知る者は、彼等の日本文化、とくに「武道」や「武士道」の研究が本物であることを知っている 欧州の武道界に変貌する前の本物の武士道と日本武道の精髄を紹介すれば、彼等は必ず反応する
 欧州が動けば日本は小生の意見を見直す これは過日の上杉鷹山事件で実証済み 野中日文って誰だ? となる 
 むろん売名である 知られなければ仕事は始まらない マーケティングのプロなら「ん?」と思うはずだ 新分野だから
 小著『武道の礼儀作法』は、「礼に始まって礼に終わる」といわれている武道界に礼書が一冊も発行されていないというウソのような現実を知った事が発端だが、しかし日本の武道界も出版界も小著をいまだに無視し続けている 無視の理由はあとで知ったが、これが日本人なのだ

 欧州の日本武道研究の真剣さについて弓道の場合をとり上げれば、オイゲンへリゲルが『弓と禅』を発表して以来、彼等は日本人はみんな弓や禅を学んでいると思い込んでいて、日本人と見れば「弓」や「禅」についての専門的で高度な鋭い質問を浴びせてくる ところが弓の指導に欧州に渡った弓道連盟役員諸公が、これに答えられない 日本人の器量を下げるために海を渡っているようなものだが、いまや日本の柔道界では欧州に受講研修にでかけることは常識、 恥とは思っていない
 この春、日本の教育界は全国の中学校に「武道」を必修科目として採用する
有意義な企画のようにきこえる だが、関係者たちは「武道」にどんな教育効果を期待しているのか? 
 どうもそれがはっきりしない 「伝統文化」とか「武士道」とかいう言葉はさかんに出てくるが、ではそれが現在の日本の武道界にどんな形で存在するのか? 問いかけても返事は返ってこない 日本的といえばいかにも日本的だが、筆者は武道人の一人としてこの状況を見過ごせない。

以下英訳サンプル~

raison d'etre – Justification for existence
Why do we exist in this world?
As for me, I do not think there is any particular purpose or reason for me to be
here in this world. I was here before I myself knew it.
Whether we need any reason to exist in this world – that actually varies people
to people.
Japanese people was likely in the past and is likely now not to think about such a
thing, saying that “I do not care about why I exist here and I do not want to even
think about it now”. Some people convince themselves by explaining
“Japanese has the characteristics of not having any principle”. Ok, fine with me.
Is there any problem if we do not have any principle?
Not having any principle also means “Japanese people is immune to any
principle” if we look at it from the spirit of the samurai (Bushido) point of view. I
will explain about this in the latter chapter but, Japanese way of thinking really
means the way of thinking based on Shinto. Shinto does not have religious
principle. Even if we do not think about this and that, we are all equipped with
everything we need in our body and mind.
We do not exist for something. We can decide how we use our life by
ourselves. It is a matter of how we take spiritual position.
Decartes said at a time in the past that “cogito ergo sum – I think, therefore, I
am”. He shouldn’t have said that. We, Japanese, have known this for ages.
In the first place, why the hell we rely on the assumption that we have the
justification of our existence?
Do we really need “self”? Does the body or the consciousness actually mean
“self”?
If you are going to find the answer to that question, give it your best shot until
you reach the point where you suspect the existence of yourself. Once you
reach that point, suddenly you will realize that there exists no “self” anywhere.
This is the way of thinking based on “Zen”, but Zen was not originally created by
Japanese. Zen was brought over to China by Bodhidharma and eventually
crossed the ocean to Japan.
It is hot in India and people try to bring themselves into deep meditation under a
tree or in a cool place on a stone to create a variety of thoughts. I think
Descartes is also pretty argumentative, but he seems to be more childish like an
academically model student in a junior high school. That is why he after ages
brought a concept “I think, therefore, I am”, which is fuss and a source of
meaningless controversy. In Zen, this means “to create a disturbance without
wind”. I would take it serious if it would be one of pleasures using pinwheel to
kill time, but…


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号外 武道の「言語化」 

エンプティネスミニスタ  中曽根総理のころ国会に、「ミッチー」のニックネームで知られる渡辺美智雄という閣僚がいた。当意即妙な云いまわしをする人で、中でも野党の選挙用の公約を魚を釣り上げるだけが目的の毛針に例えた「毛針発言」など、ちょっと余人にはマネできない絶妙の比喩というべきだろう。もっとも親分の中曽根総理にも「政治家に倫理を求めるのは八百屋に魚を買いに行くようなものだ」という野党へ「北陸じゃあ八百屋でもサバの干物を売ってるよ」と応じて喝采を受けるようなしたたかなところがあったが、大平正芳氏など渡辺ミッチーを、「こんなこみいった問題を、彼はどうしてあんなにうまく即妙な簡単な言葉に直せるのかなあ」と感心しきりだった。しかし、ミッチーには失敗例も多い。
外相の時だったと思う、東南アジア――だったかで、日本文化を紹介するつもりで般若心経の「色即是空」を――まったく、よく知らないのなら持ち出さなけりゃいい、「カラ―・イズ・スカイ スカイ・イズ・カラ― とやらかした。
聞いてる者はみんなキョトンとしていたという。そりゃあそうだろうよ。
あの一件で彼すっかり器量をさげたが、しかしこんな事でメゲていては政治家はつとまらない。「あれはまずかったですよ、空、にはカラ―じゃなくエンプティネスのほうがいい」と教えた若手がいたが、これをしばらくしてやってきた、「鉄の女」と呼ばれるイギリスのサッチャー女史へすぐ使って、またひと騒ぎあった。「あれは間違い、ほんとはエンプティネス」と訂正したから、鉄の女、以後ミッチーと出会うと親しみをこめて、「オ―、エンプティネスミニスタ」。そばにいたのがこれをその場で「空っぽ大臣」と、これがまた妙に説得力のある翻訳だったと新聞は報じていた。

 武道の言語化と行動化  時代がこれを要求している。孫子のいう、「彼を知り我を知れば百戦不殆」の「彼を知る」とは、武道でいえば現代という時代を知ること。「我を知る」とは、時代に対する自分のピンボケに気付くこと。
武道の言語化とは、「武道の本質は危険に対する感度」と言語化し、「時代が求める即戦力とは戦力化された知」と言語化すること。
行動化とは、たとえば「視野」、「情報処理」、「間合い」、「居着き」などの武道の心得を、小学校から大学まで「危険学」としての武道の講座を用意して、少子時代の受講者を集め、「これが現代の日本武道」と世界へ発信すること。
『孫子』は春秋時代の戦略家である。彼の言葉とは戦闘の言語化なのだが、けっして骨董品にはならない。骨董品になっているのは現代の日本武道。脳ミソまで筋肉化した武道人は「トレーナーを着たゴリラ」と言語化されている。 

テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

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号外 理事長 

正名論 子路が孔子に、いま一国の政治を任されたとしたら、先生はどんな仕事から始めますか? これに、「名を正すことだな」と孔子が答える。論語に出てくる話だが、これが儒教の「正名論と呼ばれるものである。
 「名」を正さないと筋目ケジメが通らず、職分が混乱する。論語ではこの後に子路が、「こーれだからなあうちの先生は、なんだってまた名なんかにそんなにこだわるんスか」と小馬鹿にしたような云い方をするのへ、「このガサツ者め、知らんのなら教えてやるから黙って聞け」と、呼称の乱れを放置することが政治の混乱をまねく理由を諄々と解りやすく説く。
 
人とサルとの違いとは毛の数ではない。言葉を使えるかどうかである。君子と下郎の違いは、このことを自覚しているかどうかである。言葉らしきものを使ってはいても、人に近いかサルに近いかは、言葉の意味内容がちゃんとわかって使っているかどうかできまる。
最近はなくなったが、以前「理事長さんはいますか」とか「会長さんいますか」という電話がしきりにかかってきた時期があった。いずれどこかの営業マンだろうが、受話器をとるとそんなことをいうから、ヘソマガリでリクツ屋の筆者が穏やかに応対するはずがない。「おれは電話番だが、うちの会長とサシで話をしようというアンタは、いったい会長とはどんな関係だ?」。みんなこれで白けてひっこんだ。理事長や会長の相場も下落したものだ。

「理事」とは事務職。理事長とは事務職の元締め。会長とは会の頭である。会
長は基本方針を定め、事がおきた時の最終責任は会長が負う。会の運営事務は理事長や理事にまかせ、理事はデスクワークには書記を使う。組織が小さい時はトップも雑用をこなすが、理事長や理事に一任すべき事まで気軽に引き受けたら若手は育たない。それは「気軽」なのではなくて「軽卒」なのである。
組織の頂点にいる者が「書記長」を名のることはある。「平等」を掲げる共産党などがこれだが、これは一種の「謙譲」であって、禅寺の住職が同様の動機から「火番」を名のることが伝統として今も生きている。ゆかしい伝統である。
これにくらべて昨今の日本の政府はおかしい。選良たちの仕事場とは思えない言葉の乱れが放置されている。たとえば「国家戦略室」。戦略、は穏当を欠く。ほかに云い方がありそうなもの。これじゃまるっきりケンカ腰だ。
「骨太の方針」? それをいうなら「基本方針」だろう。骨太とは、緻密だが線の細い華奢(キャシャ)なものとは反対の、ゴツイものの形容である。骨太の方針では「民意を無視した厚かましく図々しい方針」。いままずいんじゃねえの。

テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

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号外 今期からの義務教育の「必修武道」関係者諸士へ 其の三 

日本人の条件
「垂直軸」が条件と言いきってよい しかしこれが裏目に出ると「思考放棄」となる 結果責任を追及しようにも、事が終わったら責任者はもうそのへんにはいない そしてみんな被害者顔をして、「どうしてくれる」などという こうなると始末が悪いが、日本人の魂の遺伝子は「論理」ではなく「感覚」 だからすぐ泣く しかし感激感動型とは純真純情ということでもあるのだ
きめ手は「オテントサマ」を担ぎ出すこと かならずなんとかなる 未だにわが国は神の国 おてんとさまに柏手を打つ習慣はまだ残っている 忘れた連中の頭上に鉄槌が落ちた
結局のところ、日本人らしさとは権利意識よりも「恥」に敏感であること 慎み、憚り、テレ、はにかみ、ものをハッキリ言わない(察してもらいたい) 遠慮「世間様(みなさん)」が基準になること 以上を天・地・人の垂直軸の中に意識しているかどうかだろう 

行動論としての日本武道 ――「天地神明」に恥じぬかどうか
剣も礼も「用心」の心得だという、幕末の平戸藩主松浦静山の「礼剣同源」論がその代表だろうが、これも最終的にはやはり「おてんとさま」なのである  
「腑仰して天地神明に恥じぬ」かどうかが戦前までの日本人の行動を律していた 「天地神明」を平言葉になおせばオテントサマとなる オテントサマとは「道義」の神
イジメ問題などこの一発でかたづく むろん彼等はオテントサマと聞いてもすぐわかるわけではないが、なんだか怖そうな、ありがたそうなモノだぐらいは感じて、ひるむ 血の中に刷り込まれている 日本人にはオシャカサマよりも有難いのがオテントサマなのである
孟子の王道論では、これは「仁義」の問題になる 仁義、を一文字で表わせば「道」、すなわち道義、道義=オテントサマ  

●● 以下は各論
日本武道の心の技
直心 学習の成果としてではなく、生まれながらに身に備わっている、生きているものすべてを生かそう生かそうと働いている「天意」を、直心影流の剣では「直心」と呼んで重視する この視点は医学の「免疫力」につながり、孟子の「王道論」につながり、日本人の「安神立命」につながる、日本の芸道を一貫する垂直軸である 

○剣体 身心ともに「崩れない」姿勢をいう 剣の修練とは剣体の鍛錬のことだが、しかし同時にこれは「人間廃業」の構えでもある だがこれは致し方ない 「禅」の修業がこれなのだ それで「剣禅一如」という
 
○自然体 構えの一種 つまり変化自在の戦闘姿勢の一種 この「自然体」は人間の言動すべての場面で用いられるようになっている 「自然体」に限らず、「平常心」も「相打ち」も「間積もり」もすべてそうだが、日本武道のふところの広さと深さである 
 
○平常心 「つねの心」のことだが、日常茶飯の、なんの変哲もないごく普通 の、コロコロと動いている意識をいう これに対して、非日常の「真剣」、「必死」とは硬直した、応用変化の利かない、剣の立場からいえば「居着き」にあたる心の「死に体」である 

○不動心 これも上記の「平常心」を言い換えただけのもの 内容は同じ
剣は「居着く」ことを嫌う 硬直を嫌う 心は常に「臨機応変」を維持しなければならない くりかえすが、心とは常にコロコロと動いているのが本来の姿 コロコロがココロとなった 「一所懸命」はよくない 「不埒」がよい お間違えのないように もと太陽族の石原都知事は「不良っぽさ」こそが少年たちの本質だという さすがによい視点だ オリコウサンよりもワルガキがいい オリコウサンの別名が「バカ」 バカたちの仲良しゴッコが会社をつぶし、国を滅ぼす 

○目付け 視野の取り方と着眼点の心得 拳銃では「ボンヤリ照準」と教える 凝視はよくない 見ていながら見ず、見ずに見ている 「知らん顔」も目付けのひとつ 合気道の植芝盛平は「見るな、構えるな」と教えた 「合気されるぞ」と 主体性の維持を剣の心得に置き換えるとこうなる

○間合い 相手との距離の心得のことだが、これを日常的な対人関係に応用す
ればイヤな相手とでも付き合える いま必要なのは「時代との間合い」の取り方だろう 巻き添えを食うのは間合いが近すぎるのだ

○見切り 相手の意図を見抜いて外すこと 達人には一寸の見切り、五分の見切りができるという 太刀筋を読む 他人の意図、態度、言葉を見切る 暴言を見切る 時代を見切る 未来を見切る 原子エネルギーを見切る 応用自在
実例をひとつ挙げましょうか 古代中国に柳下恵という賢者がいた 同僚との議論の最中に、痛いところをつかれて逆上した相手が柳下恵にペッ!と唾を吐いた 中国人はよくこんな事をします 「唾棄」というやつ ところが柳下恵、動じない 平然としている 見ていた者があとで、貴殿あの時どうして怒らなかったのか? 柳下恵答えていわく、「唾を吐いたのは彼 怒るかどうかは拙者の勝手」――カラスの勝手というわけだ
 打ち太刀なら一歩退けばはずせる 暴言をはずすには一歩も動く必要はない 逆上しやすい男が一人、目の前に立っているだけの事だ

○位どり 心理的なものであれ物理的なものであれ、どんな立場、どんな姿勢で応対するかという心得 「構え」のひとつだが、たとえば親に対する子、子に対する親、それぞれに「位」のとりかたである 位のとりかたで動き方がきまるが、親子兄弟男女、敗戦でみんな平等になってしまった それで我々は豊かになれたか? 貧しくなった  
 
○拍子 剣の場合、打突の技を生かすのも殺すのも間合いと拍子(タイミング)である 時間の間(タイミング)を外した振る舞いをマヌケ(間抜け)と呼ぶ マジメとは「間」の締まった、「間」の抜けていない振る舞いのこと 剣も言動も「間」がぬけたのでは仕事にはなりません

○居着くな  「剣体」とは「居着きをなくした姿勢」 「居着き」とは身心の「死に体」 剣の場合、相手を見ているうちは隙はない だが、出よう、打とうとする一瞬に動体視力を失う この一瞬を待っている「出小手」専門の剣道屋がいる 「出よう」という思い(予定)に居着いて身心ともに死に体になる 実例でみてもらうのがいいでしょう つぎのような場面
登校の門限に遅れて駆け込もうとする生徒を、見張っていた教師が鉄柵ではさんで圧死させた事件がある 生徒は駈け込もうとする、教師は鉄柵を閉めようとする 双方ブレーキが利かなかった 
この場合、生徒は教師をみて、立ち止まって遅刻した事を詫び、教師は「明日からはもっと早く家を出ろよ」と言葉でたしなめるのが職務のはずです 
「教育指導」と「監視」や「見張り」はちがう 体育会系の教師に多いが、脳ミソまで筋肉化しているキン肉マンのこんな教師に子供を預けられますか

以上、「見切り」と「居着き」の二例で日常行動の中での剣の心得を示したわけですが、「位どり」にせよ「平常心」にせよ、日常行動に置き換えられぬ心得は、本来の日本武道にはございません ▲▲


むすび
執筆に一区切りつけ、夜具に足を伸べて見る夢は、スミレ、タンポポ、サクラソウが咲き、スズメ、ニワトリ、ネコが遊んでいる陽だまりの小天地に、清冽な岩清水でのどをうるおし、生き物たちと乏しい食をわかちあう、なんの蓄えもない、その日暮らしの、戦車もミサイルもいらない日常です 
この陽だまりには自然科学はないが、オテントサマが見護っていて、みんなその日暮らしに安んじ、ケンカをするにも仲良くケンカしている 相手が泣きだしたらそこでやめて、ごめんね、という風景です 
科学文明は人をどこへ連れて行くのか――今期の地球文明は、おそらく原子力で亡ぶ 鳥も、虫も、みんないなくなる 悲しい
「科学」という現代の神は、信仰が深まるほど我々に、「安心」ではなく「不安」を与えたまう この事に気付いている者はけっして少なくはないのだが、預言者は世に容れられぬ せめてニセキリストたちとの戦い方を学ぼう
「人」から出発する西洋文明にふれる以前の、本朝はえぬきの戦国武士道と、本朝開闢以来の日本武道に、生き方や戦い方のモデルがあります 力がすべての時代ではあったが、それは財力がすべてと言いきってもよい現代も、本質的にはいささかも変わってはいません 我々が背負っているカルマなのでしょう 
ならばいっそ出発点へもどってみませんか 
戦国武者たちの価値観とは、けっして人には飼いならされることのない、わが道を往く「狼」の生き方でした 石原都知事が筆者と同じところを見ていると知ったのは最近の収穫です 石原さんは、「良い子」は食わせ者だという 本音を隠していると してみるとオテントサマをかつぐ小生も「太陽族」か
源氏物語に登場する美悪雑乱のプレイボーイ光源氏の姿に、けっして飼い馴らされることのない狼の気性を尊ぶ、戦国武士道を想うことがあります
武道も変質し、武士道も御用学者たちに悪用されてしまったが、しかし戦い方の心得は、「視野を広くとれ」、「居着くな」、「間積もり」、「支配されるな」、「受けるより攻めよ」などという言葉としてまだ残っております これらの言葉を手がかりに、戦い方を原点から学び直してみようではありませんか ▲▲

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