06 // 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. // 08

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[edit]

trackback: -- | 本文: --

休載のお知らせ 

勝手ながら暫く休載致します。
連絡が遅くなりましたこと、お詫びいたします。
さて、次回からは兵法についてのシリーズを企画しております。
予定では月に一度の掲載です、少々お待ちください。

野中日文
スポンサーサイト

[edit]

日本の行動文化の特性 

執筆者の思想的な立場と視点
インタネットの「野中日文」の検索で執筆者に関するデータはすべて入手できるが、筆者の思想的な立場は、まず小学生のころから愛読してきた東洋の実践論である『論語』、『孟子』などの朱子学の古典、それから成人後の『孫子』、『蔚繚子』などの戦略書、禅を経て本居宣長、賀茂真淵の復古神道への回帰である。興味本位に渉猟したのだが、結果的には先輩方が学ばれた神、儒、佛という三系統の学問のあとをたどったことになる。
武道については中学生当時からの柔道、のちの剣道(高野佐三郎門)への転向、その後の無刀流、直心影流などの古武術の渉猟を経て合気道開祖植芝盛平に出会い、その直伝の武術と心術を学ぶ幸運に恵まれ、闘争の技術がそのまま万物万類を愛護する道へつながる日本武道の構造を知った。 
本稿は上述の三教と開祖直伝の合気道神学(言霊学)を下敷きにしたものだが、とくに本稿の中心軸である「武道行動学」は、筆者の直心影流の剣と禅(臨済系隠山派)の師である鐡舟会の大森曹玄の武道観を、不肖ながら門下の末席につらなる者として引き継いだものである。 師は、

武道が時代性を失ってしまったのは、武道を武道場の中でだけの鍛錬と思っていて、日常の対人関係の中での心術(心の技)に置き換えるという視点や努力を怠っているからだ。

と言っていた。これは心形刀流の剣の使い手であった平戸藩主松浦静山の視点とまったく同一の視点である。だがこの視点をもつ者は現代の武道界にも数は少ないが、いる。 
残念ながらお名前を記録していないが鉄鋼業界に、「仕事に役立つ」からと「不動心」の鍛錬が目的で毎日欠かさず剣道で汗を流しておられた。当時6段? だったか、段位についてはとくに望みはないから昇段審査は受けず、公式の試合にも出ないとのことだった。「ほう、まだこんな人がいるのか」と嬉しかった。   
アスリート(スポーツ芸人)だけになってしまっている武道界にも、まだ捜せばこんな人はどこかにいるはずである。

[edit]

行動文化(186) 龍神様 

(前回に続く)要求されて困りきっている、このことについてもご意見を聞きたいから一度同行してくれないかといわれる。それで例会の日に行ってみた。
 ついた時はちょうど霊交の最中で、霊媒者が祭壇の前に腹ばいになって蛇がのたうつように這い回っているところだった。この様子を一見してこれは蛇霊だと直感、末座から霊媒者の前額部をみると茶色の霊光が盛んに立ち昇っているが、三分とたたず霊媒者は立ち上がってキョロキョロと廻りを見回す。私(玄通子)は思わず笑い出した。会員たちは私と霊媒者とを見比べて怪訝な顔。
 この霊媒者は五十すぎの背の高い神経質な男。印堂に二本のタテ筋。眉目は細く釣り上がり、唇は薄く、法令は赤く、表情は蛇面そのもの。度重なる蛇霊の憑依で相貌が蛇類に変わってしまったのである。
 霊道宮を暗濛食が蔽い、印堂に赤色が立ち凌雲には白ナマズのような枯白色(邪霊憑依)が出ていた。この人はこのままではあと三,四年の命と思ったことであった。人間の高級な意識が低級な蛇霊との交流で失われつつある状態がこの霊媒者の相貌だった。
 「今日のお告げは?」と主催者らしい老人が問うと、「今日は龍神様はほかへ急いで行かなければならないから長居はできないといって発たれました」
と霊媒者は、私の方を鎌熊日をもちあげるような格好で盗み見る。参会者たちはなあんだとつまらなさそうに顔を見合わせたが、院長女史が参会者たちへ私を紹介して「何かお話を」と切り出されたので、私は観相したままをのべ、龍神などと僭称しているが、這い回る様子からみて憑いていたのは相当の年功を経た蛇霊であること、長居はできないと出て行ってしまったのは私が霊媒者の観相を始めたため、私に高級な活動神が浸透してこられたので蛇霊が驚いて逃げ出したのであること、高度な理性意識体である活動神に出合うと低級な動物霊は霊体が破壊される恐れがあること、私自身にそういう力はなくても観相の三昧境に入ると活動神との交流が即座に始まるのでどんなに霊媒者が心魂を凝らして祈りあげても動物霊は絶対に近づかないこと、宇宙意識(神)の固体界での最高発展体である人間が進化の段階にある動物霊などと交流することは、人間の高度な意識を動物霊に提供する事になって、動物霊はそのために強化されるが、霊媒者たる人間の方は逆に意識が弱体化して天壽を全うできないことなどを二時間ほど話した。――つづく

※近刊案内 『武士道と武道(英文)』 『予知』――いま甦る古代支那の開運の科学 『垂直思考』――思想家野中日文の筆業の総決算  『美術カレンダー(冊数限定)』――剣者野中の筆のすさび  ヘッドライト大阪(06・6609・9750)

テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

[edit]

行動文化(174) 人生とは過程 

人生に目的があるかどうかも、人の命の問題も、人によって違う。だがこれは一般論であって、個人として考えれば「人によって違う」などとのんきな事はいっていられない。
我々はおたがい、屁ひとつ貸し借りのできないのっぴきならぬ日常を生きている。人生の内容とは小面倒で鬱陶しい貸し借りや、それに伴う愛憎である。小生自身にしたところで、いつどこで誰に何を云われているか知れたものではない。弁解はしないが、しかし「弁解」はしょせん人間相手。つまり水平思考。垂直の視座からは人生とは過程なのであって、泣いたり笑ったりの一瞬一瞬で完結しているのである。
え? 無定見? その通り。無定見では悪いか。
自分の問題なのだ。一般論ではない。人が立っていられるのは一本足ではなく、二本足で、動けるからである。光源氏は稀代の浮気者。右にふらつき、左によろめき、その日その日の出来心。やまとごころとはすなわちこれ。日本男児のお手本として後世に名を遺した。

「悲」
 人は自分のことを思っているときは地獄にいるのだといったのは禅の沢木興道。禅を学んでニヒリズムの地獄を脱出できないのはニセ悟りと断じてよろしい。
禅とは無我の自証である。
沢木の「宿なし興道」の看板を「宿なし」だけ余計だと批判した者が禅界にいる。無論そういえなくはないが、批判のための批判の観を免れない。
沢木老師の「宿なし」は、剣でいえば「位どり」の心得。位どりだというのは、「悲」とは与奪の「与」の位。殺人刀活人剣の二つの位でいえば「悲」とは無条件の愛。
そもそも我々は何のためにこの世へ生まれおちるのか。
むろん色々な意見があるが、筆者はそれは「悲しみ」を体験して自由を手に入れるためだと思っている。自由がほんとに手にいるかどうかは体験しかない。もし悟ったと思っても「虚無感」が残っていたらそれはまちがいなくニセ悟り。最後に残るのが肉体。肉体とは天が与えたもうた「不如意」を体験させるための足枷。
※『武士道と武道(英文)』 『予知』――いま甦る古代支那の開運の科学
 『垂直思考』――思想家野中の筆業の総決算  『美術カレンダー(部数限定)』――剣者野中日文の筆のすさび  ヘッドライト大阪 (06・6609・9750)

テーマ: 文明・文化&思想

ジャンル: 学問・文化・芸術

[edit]

剣者野中日文の筆のすさび~平成25年書画カレンダーのご紹介 

書画構成

[edit]

プロフィール

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。