行動文化 (134) 「やまとだましい」の誤解
2013/02/18 Mon. 00:00 [行動文化]
語源は、本居宣長の「敷島のやまとごころを人問わば、朝日に匂うやまざくら花」。パッと咲いてパッと散るいさぎよさでも心意気でもない。わずかな風にもおびえてハラハラと散り騒ぐような、鋭敏で繊細可憐な少女の心にも似た、ものに感じやすい心。
これを武士道に結びつけたのは、おそらく刑死直前の吉田松蔭のつぎの歌
♪身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも、とどめおかましやまとだましい
と、もうひとつの、
♪かくすればかくなるものと知りがら、やむにやまれぬやまとだましい
これは渡航に失敗して捕えられ、東京の赤穂義士の墓前を通過するとき義士に手向けたとされる歌。
以上の二首だろう。これらの歌は損得とは無関係の、人としての心情を詠んだ歌。これなら太平洋戦には結びつく。「やまとだましい」が武士道に結びついたのはこういう事だろう。
だがこの二首、吉田松蔭の心情としては解るけれども、どうも幼い。「かくすればかくなるものと知りながら」というが、こうすればこうなると結果がみえているのなら、しかもそれが徒労に終わるとわかっているのであれば、なぜ思いとどまらなかったのか? 赤穂義士のことではない。松蔭自身のことである。
二首のうちの「武蔵の野辺に朽ちぬとも」の方は、まあ滅私奉公の歌ではあるだろうが、男とは「力」の運用者。兵法の視点からみても松蔭君の「かくなるものとしりながら」は戴けない。
武士道とはもののふの道である。本質は「力」。別名を「おとこみち」と呼ぶ。可憐な少女たちの心にも似た「やまとごころ」を護るための武士道なのである。「かくなるもの」と知りながら失敗してしまったのでは、さまにならん。「やまとごころ」を護るどころか松蔭自身が可憐な少女になってしまう。
「やまとだましい」では戦えないのだ。日本人の行動文化が生んだ可憐な一輪の花「やまとだましい」を護るための技術が「戦略」であり「武道」でなければならぬ。そのための「滅私奉公」なら、文字通りの「滅私」でも立派に死に花は咲くが、滅私の対象を国とするか人とするかは人により場合によって違う。違ってかまわないのだが「愛国心」についていえば、まさに滅びようとしている国を為政者たちに任せておけない、国を思う心情が愛国心。そしてこの種の愛国心をもっているのが本物の志士。
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